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世界のワクチン離れで再燃するはしか危機と各国医療安全保障の弱体化

by 中村 壮志
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ワクチン停滞が医療安全保障へ変わる構図

世界の定期予防接種は、新型コロナウイルス禍の混乱から表面上は持ち直しつつあります。しかし、回復は平らではありません。WHOとUNICEFの2024年推計では、DTP3の世界接種率は85%で、2019年の86%に届いていません。ワクチンを一度も受けていない「ゼロドーズ児」も1430万人に上ります。

この数字が重いのは、接種率の停滞が単なる医療行政の遅れにとどまらないためです。はしかのように感染力が極めて高い病気は、国境を越える移動、紛争による避難、SNS上の偽情報、援助資金の変動をまとめて映し出します。ワクチン離れは、公衆衛生の問題であると同時に、国家の統治能力と社会の信頼を測る安全保障指標になりつつあります。

接種率回復を阻む制度疲労と信頼低下

DTP3とゼロドーズ児に残るコロナ禍の傷跡

定期接種の基礎体力を見る代表的な指標が、ジフテリア、破傷風、百日ぜき混合ワクチンの3回目にあたるDTP3です。WHOのデータでは、世界のDTP3接種率は2019年の86%から2021年に82%まで落ち込み、2024年に85%まで戻りました。数字だけ見れば回復局面ですが、コロナ前への完全復帰ではありません。

さらに問題なのは、平均値の裏にある地域差です。UNICEFのデータでは、2024年にDTP3で90%以上を達成した国は111カ国でした。2019年の125カ国より少なく、目標達成国の層が薄くなっています。西・中央アフリカのDTP3接種率は72%にとどまり、中東・北アフリカも2023年の81%から2024年に79%へ下がりました。

ゼロドーズ児は、保健サービスに一度も接続できていない子どもです。2024年の1430万人という数は、2019年の基準よりなお多く、Gaviは低所得国の回復の遅れ、紛争、不安定化を主因に挙げています。UNICEFは、未接種・接種不足の乳児の約半数が制度的・社会的に脆弱な国や紛争影響国に暮らすと説明しています。

ここで重要なのは、接種率の低さが「貧しさ」だけで説明できなくなっている点です。戦闘で保健所が閉鎖される地域、債務負担で保健予算を削る国、人口移動で台帳が追えない都市周縁部では、ワクチンを届ける行政能力そのものが揺らぎます。こうした空白は一時的な遅れではなく、次の流行を待つ燃料になります。

紛争と偽情報が広げる接種空白

ワクチン離れのもう一つの柱は、供給ではなく信頼の問題です。UNICEFの「世界子供白書2023」は、調査対象55カ国のうち52カ国で、コロナ禍に子どものワクチンを重要と考える人の割合が低下したと報告しました。韓国、パプアニューギニア、ガーナ、セネガル、日本では低下幅が3分の1を超えたとされています。

背景には、パンデミック対応への不満、専門家への不信、政治的分断、SNSで拡散する誤情報があります。コロナワクチンをめぐる強い対立が、麻しんやポリオのような定期接種にまで波及したことが特徴です。科学的な安全性の説明だけでは足りず、誰が説明するのか、どの制度が副反応や救済を担保するのかが問われています。

国際政治の視点では、偽情報は国内世論だけでなく、国家間競争の素材にもなります。医療機関や国際機関への不信をあおる情報は、社会の分断を深め、政府の感染症対応を遅らせます。保健政策が政治対立の象徴になると、接種会場の拡充や学校での確認といった実務まで進みにくくなります。

資金面の逆風も強まっています。WHOは2025年、低・中所得国向けの外部保健援助が2023年比で30〜40%減る見通しを示し、一部の国では母子保健、予防接種、緊急対応、疾病監視などの重要サービスが最大70%縮小したと報告しました。ワクチンは安価で効果の高い介入ですが、最後の一人に届けるには人員、冷蔵網、台帳、地域の仲介者が必要です。援助削減は、その見えにくい基盤から先に削ります。

はしか再流行が示す国境を越える脆弱性

95%接種が必要な感染力の高さ

はしかは、接種空白を最も早く可視化する感染症です。CDCは、免疫を持たない人が感染者と近く接触した場合、最大9割が感染すると説明しています。空気感染するため、同じ部屋にいただけで感染することもあり、感染者が去った後もしばらくリスクが残ります。

WHOは、はしかの流行を止めるには2回接種で少なくとも95%の接種率が必要だとしています。ところが2024年の世界推計では、1回目の麻しんワクチン接種率は84%、2回目は76%にとどまりました。30万人や300万人ではなく、3000万人を超える子どもが十分な防御を持たない状態に置かれています。

この差は、発症者数に直結します。WHOは2024年に推計9万5000人がはしかで死亡したとし、その多くは未接種または接種不足の5歳未満の子どもでした。2000年から2024年までに麻しんワクチンは推計5900万人の死亡を防いだとされますが、逆に言えば接種の穴が開けば、過去に抑え込んだ病気は短期間で戻ります。

流行国数の変化はさらに明確です。WHOとCDCは、2022年に大規模または混乱を伴うはしか流行を経験した国を37カ国としました。2024年にはWHOが59カ国を報告しており、2年で約1.6倍に広がった計算です。2021年比ではほぼ3倍で、コロナ禍後の免疫ギャップが世界中で噴き出していることを示しています。

米欧と日本に広がる輸入症例の連鎖

再流行は低所得国だけの問題ではありません。WHO欧州地域では2024年に12万7350例が報告され、2023年の2倍、1997年以来の高水準となりました。ルーマニアが3万692例、カザフスタンが2万8147例と多く、複数の国で1回目接種率が95%を大きく下回っています。

米国も例外ではありません。CDCによれば、2025年の米国の確定例は2288例で、2024年の285例を大きく上回りました。2026年も5月14日時点で1893例が報告され、93%がアウトブレイク関連です。幼稚園児のMMR接種率は2019〜2020年度の95.2%から2024〜2025年度に92.5%へ低下し、約28万6000人が十分な記録なしで学校に通っているとされます。

南北アメリカの状況は、いったん排除した地域でも再侵入を防ぐ難しさを示します。WHOは2025年4月、米州地域で同月18日までに2318例、3人の死亡を確認し、前年同期比11倍と発表しました。多くは未接種または接種歴不明で、輸入例や輸入関連例が中心です。人の移動が増えれば、接種率の高い国にも脆弱な集団を起点に感染が入り込みます。

日本でも同じ構図が見えます。国立健康危機管理研究機構は、2026年4月15日時点で国内299例を報告し、前年同時期の78例から約3.8倍に増えたと注意喚起しました。患者は10〜20代を中心にみられ、公共交通機関、学校、医療機関、施設での感染拡大リスクも指摘されています。日本は排除状態を維持してきましたが、輸入例と国内の接種歴不明層が重なれば、局地的な集団発生は十分に起こり得ます。

接種空白が企業活動と財政を削る経路

ワクチン離れの経済影響は、医療費の増加だけでは測れません。CDCは、低・中所得国の予防接種プログラムは1ドルの投資に対して推計52ドルの社会・経済的損失を避ける効果があると説明しています。失われるのは治療費だけでなく、休校、欠勤、隔離対応、接触者追跡、渡航制限、物流の遅延です。

企業にとって第一のリスクは、労働力と事業継続です。はしかは発症前から感染性があり、1例でも職場、学校、病院、空港で接触者調査が必要になります。免疫の確認、濃厚接触者の自宅待機、医療機関での隔離対応が重なると、感染者数以上に業務への影響が広がります。海外拠点や出張者の多い企業ほど、流行地情報と接種歴管理を労務リスクとして扱う必要があります。

第二のリスクは、国家財政と援助構造です。援助削減で定期接種が細ると、各国は後から流行対応により多くの資源を投じます。緊急ワクチンキャンペーン、臨時検査、医療スタッフの再配置は、平時の予防より高くつきます。債務負担が重い国では、教育やインフラ投資を削って対応する可能性もあり、成長余力をさらに狭めます。

第三のリスクは、地政学的な不安定化との連鎖です。紛争地域や避難民キャンプでは、過密、栄養不良、保健施設の破壊が重なります。WHOは、災害や紛争で保健インフラが損傷した国では定期接種が中断され、居住施設の過密が感染リスクを高めると説明しています。感染症流行は人道危機を深め、周辺国への移動を増やし、国境管理や外交調整の負荷を押し上げます。

ただし、危機の見方は一方向ではありません。南アジアでは2024年にDTP3接種率が92%へ上昇し、インドの改善が地域全体を押し上げました。HPVワクチンの普及も一部で進んでいます。問題は、成功例があるにもかかわらず、紛争、財政難、偽情報にさらされる地域で回復が遅れていることです。世界平均ではなく、国別・地域別の「穴」を見なければ、次の流行地点は読めません。

日本企業が点検すべき国際保健指標

日本の読者が注視すべき指標は三つです。第一に、WHO/UNICEFのDTP3、MCV1、MCV2の推計です。国別に90%や95%を下回る地域は、はしかだけでなく他のワクチン予防可能疾患の再燃リスクも高まります。第二に、CDCやWHO、JIHSが出すアウトブレイク情報です。流行国数、輸入例、接種歴不明の割合は、渡航管理と海外拠点運営の早期警戒になります。

第三に、保健財政と援助の変化です。外部援助の急減、保健人材の離職、監視体制の弱体化は、接種率の低下より早く危険信号になります。ワクチン離れは個人の選好だけで起きるのではなく、国家の制度疲労、情報空間、国際資金の変調が重なって起きます。投資家や企業は、感染症を一過性の医療ニュースではなく、政治リスク、人的資本、サプライチェーンを結ぶ先行指標として読む必要があります。

参考資料:

中村 壮志

国際情勢・地政学・安全保障

中東・米中関係を中心に国際情勢を取材。地政学リスクが日本経済に与える影響を、現地の視点から分析する。

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