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ベテラン社員の「主化」を防ぐAIナレッジ継承術

by 田中 健司
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はじめに

「あの人がいないと現場が回らない」――多くの職場で耳にするこの言葉は、一見するとベテラン社員への信頼の表れに見えます。しかし経営の観点からは、特定の個人に業務知識やノウハウが集中する「属人化」は深刻なリスクにほかなりません。ベテラン社員が職場の「主(ぬし)」と化し、その人なしでは業務が成り立たない状況は、退職や異動のたびに組織を危機にさらします。

こうした課題に対し、近年注目を集めているのがAI(人工知能)を活用した暗黙知の形式知化です。長年の経験で培われた「勘」や「コツ」といった言語化しにくい知識を、AIの力でデジタル化・共有可能にする取り組みが、製造業をはじめさまざまな業界で広がっています。本記事では、属人化がもたらすリスクを整理したうえで、AIによるナレッジ継承の最新手法と先進企業の事例を詳しく解説します。

ベテラン社員の「主化」が企業にもたらすリスク

属人化とは何か

属人化とは、特定の社員だけが業務知識やスキルを持ち、その人がいなければ業務が滞ってしまう状態を指します。とりわけ勤続年数の長いベテラン社員は、長年にわたって蓄積した経験則や人脈、業務上の判断基準を独占的に保有しがちです。周囲から「あの人に聞けば分かる」と頼られるうちに、本人も無意識のうちに職場の「主」としてのポジションを確立してしまいます。

経営上の3つのリスク

属人化がもたらすリスクは大きく3つに整理できます。

第一に業務継続リスクです。ベテラン社員が病気や退職で不在になった場合、その業務が完全に停止する恐れがあります。NTT東日本の事例では、現場立ち会い業務を担当してきたベテラン社員の高齢化に伴い、若手への技術継承が急務となりました。代替要員の育成が追いつかなければ、事業そのものに影響が及びます。

第二に品質のばらつきリスクです。ベテラン社員の暗黙的な判断基準が共有されていないと、他の社員が同じ業務を行った際に品質のばらつきが生じます。帝人では、人事・総務部門への問い合わせ対応において、対応する社員によって回答内容がばらついていたことが課題となっていました。

第三に過重労働リスクです。「この人にしかできない」業務が増えるほど、その社員への負荷が集中します。過度な負担は心身の疲弊を招き、結果として退職につながるという悪循環に陥りかねません。

なぜ属人化は解消しにくいのか

属人化が放置されがちな背景には、構造的な要因があります。まず、ベテラン社員自身が自らのノウハウを言語化することに慣れていないケースが多いことです。「見て覚えろ」という教育体制が根付いた職場では、技術開示への心理的抵抗も少なくありません。

また、日々の業務に追われるなかで、ナレッジの整理・文書化に割く時間を確保できないという実務上の制約もあります。さらに、自分にしかできない業務を持つことが社内での存在意義につながるため、無意識にノウハウの囲い込みが起きるという心理的な側面も見逃せません。

AIで暗黙知を形式知に変える最新アプローチ

SECIモデルとAIの融合

暗黙知と形式知の関係を理論的に整理したフレームワークとして、一橋大学名誉教授の野中郁次郎氏が提唱した「SECIモデル」が広く知られています。これは共同化(Socialization)表出化(Externalization)連結化(Combination)、**内面化(Internalization)**の4つのプロセスを繰り返すことで、個人の知識を組織知へと昇華させるモデルです。

従来、このサイクルの中でもっとも困難だったのが「表出化」、すなわち暗黙知を言葉や図表で表現するプロセスでした。しかし生成AIの登場により、この壁を大幅に低くできるようになっています。熟練者が日常的に使っているメモ書きや指示メール、会議での発言内容をAIにインプットすることで、そこに含まれる暗黙的なエッセンスを抽出し、体系的な形式知として再構成することが可能になったのです。

RAG技術による社内ナレッジ活用

生成AIを社内ナレッジの活用に結びつける技術として注目されているのが**RAG(Retrieval-Augmented Generation:検索拡張生成)**です。RAGは、生成AIが社内文書や過去の事例データベースから関連情報をリアルタイムに検索・参照したうえで回答を生成する仕組みです。

この技術を導入することで、社員は自然な言葉で質問するだけで、社内に蓄積されたベテランのノウハウに基づいた回答を得られるようになります。中小製造業での導入事例では、RAG導入後に情報検索にかかる時間が平均90%削減され、新入社員でも迅速に業務知識を獲得できるようになったと報告されています。

さらに進んだアプローチとして、社内のサポートチケットやチャットログといった非構造化データから、AIエージェントが自動的にカテゴリを発見・分類し、整理されたナレッジベースを生成する手法も実用化されています。

AIエージェントによる自動ナレッジ生成

2025年11月には、メディアリンク株式会社が社内の価値ある知見を自動で抽出・整形・ナレッジ化する次世代データプラットフォーム「Knowledge Link」の提供を開始しました。従来のナレッジマネジメントでは、誰かが意識的に知識を文書化する必要がありましたが、こうしたツールは業務の流れの中から自動的にナレッジを抽出・蓄積する点で画期的です。

AIを活用した動画解析とマニュアル自動作成の分野でも成果が出ています。ある製造業企業では、熟練工の作業をAIが動画分析し、重要な動作やポイントを自動抽出することで、暗黙知の98%を可視化することに成功しました。さらにAIが分析結果をもとに画像付きマニュアルを自動生成し、マニュアル作成時間を従来の5分の1に短縮しています。

先進企業に学ぶAIナレッジ継承の実践

荏原製作所:知識駆動型DXプロジェクト

製造業における先進的な取り組みとして、荏原製作所が2026年3月に本格始動させた「知識駆動型DXプロジェクト」が注目されています。このプロジェクトは、東京大学の梅田靖教授が提唱する「デジタルトリプレット」の概念に基づいて独自開発した設計開発支援システム「EBARA 開発ナビ」と、自律分散型AIエージェント基盤「Ebara Brain」を融合させるものです。

概念実証では、給水ユニットを対象に、人が時間をかけて整理してきた設計プロセスの85%をAIエージェントで形式知化でき、諸元間の関係性予測では**精度83%**を達成しました。荏原製作所はこのプロジェクトを2028年までに4つのフェーズで段階的に展開する計画です。

2025年版ものづくり白書によると、製造業の能力開発・人材育成における最大の課題は「指導する人材が不足している」(65.9%)とされており、荏原製作所の取り組みは業界全体の課題に対する一つの回答と言えるでしょう。

デンソー:AIナレッジマネジメント基盤

自動車部品大手のデンソーも、2025年4月から富士ソフトと協力し、熟練エンジニアの暗黙知をデジタル化するナレッジマネジメントシステムの構築に着手しています。35の国と地域で事業を展開する同社では、海外拠点における人材の流動性の高さが課題でした。限られた在籍期間の中でエンジニアが持つ知識やノウハウをいかに組織に残すかが、グローバル経営上の重要テーマとなっていたのです。

開発中のシステムでは、エンジニアが蓄積してきた技術情報や検討経緯、判断理由などを登録・管理できるほか、開発資料や議事録、音声データに含まれる言語化が難しい暗黙知をAI技術でデータ化します。ベクトルデータベースに格納された情報はRAG技術を通じて検索可能となり、エンジニアが必要な情報を自ら検索して業務に活用できる仕組みです。

導入にあたっての注意点と今後の展望

AIによる暗黙知の形式知化は万能ではありません。導入を成功させるためには、いくつかの注意点を押さえておく必要があります。

まず、ベテラン社員の心理的配慮が不可欠です。ノウハウの共有を「自分の価値が下がる」と感じる社員がいることは自然なことです。AIを介することで「個人から知識を奪う」のではなく、「組織の知的資産を豊かにする」というポジティブな文脈で進めることが重要です。感情的な対立を避け、ベテラン社員を「知識の源泉」として尊重する姿勢が求められます。

次に、データの品質管理です。AIに学習させるデータが不正確であれば、生成されるナレッジの品質も担保できません。導入前に「どのデータを対象とするか」「どの範囲までアクセスを許可するか」を明確に定義しておくことが重要です。

さらに、段階的な導入が成功の鍵を握ります。全社一括での導入ではなく、特定の部署やプロセスで成果を出してから横展開するアプローチが現実的です。荏原製作所のように段階的なフェーズ計画を立てることで、組織の受容性を高めながら着実に成果を積み上げることができます。

今後は、AIエージェントが業務プロセスの中からリアルタイムでナレッジを抽出・更新する「自律的ナレッジ管理」がさらに進化していくと見られています。ベテランの知恵を組織の資産として活かしつつ、特定の個人への過度な依存を解消する取り組みは、人口減少が加速する日本企業にとってますます重要になるでしょう。

まとめ

ベテラン社員の「主化」は、個人の能力の高さが裏目に出た組織課題です。しかし、この問題は感情的に対処しようとすればするほど、かえって摩擦を生みかねません。AIを活用した暗黙知の形式知化は、人対人の対立構造を避けながら、組織全体の知識レベルを底上げできる有効なアプローチです。

荏原製作所やデンソーの事例が示すように、すでに日本の大手製造業でも具体的な成果が出始めています。SECIモデルに基づく知識創造のサイクルにAI技術を組み込むことで、これまで困難だった暗黙知の表出化が飛躍的に効率化されています。重要なのは、ベテラン社員を排除するのではなく、その知恵を組織の永続的な財産へと転換する仕組みを構築することです。人とAIの協働によるナレッジマネジメントの進化は、日本企業の競争力を左右する重要なテーマとなっていくでしょう。

参考資料

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