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政策保有株8.8兆円売却、成長投資へ転じる企業統治改革の最前線

by 鈴木 麻衣子
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政策保有株売却が示す日本企業の転換点

上場企業による政策保有株、いわゆる持ち合い株の売却が一段と進んでいます。2026年3月期の有価証券報告書をもとにした集計では、売却額は8兆8900億円とされ、過去2番目の高水準になりました。単なる株式売却ではなく、日本企業が「取引関係の維持」から「資本効率の向上」へ経営の軸足を移していることを示す動きです。

政策保有株は、長く安定株主づくりや取引関係の補強に使われてきました。一方で、投資家からはROEを押し下げる非効率資産、株主総会での監視機能を弱める構造、株価変動リスクを抱え込む財務問題として批判されてきました。今回の焦点は、企業が売却益を一過性利益として処理するだけでなく、成長投資、事業再編、株主還元へどう再配分するかにあります。

企業統治改革が売却を加速させた制度要因

東証要請が押し出した資本コストの視点

政策保有株の縮減は、個別企業の自主判断だけで進んだものではありません。大きな転機は、東京証券取引所が2023年3月にプライム市場とスタンダード市場の全上場会社へ要請した「資本コストや株価を意識した経営」です。東証は2026年4月にも要請を更新し、経営資源の適切な配分を投資家の期待として示しました。日本取引所グループ

この流れの中で、保有株式は「含み益がある資産」ではなく、「資本コストを上回る収益を生んでいるか」を問われる資産になりました。取引先株を持ち続けることで保険契約や商取引が維持できるとしても、その便益が株価変動リスクや資本効率の悪化を上回るかを説明できなければ、保有合理性は認められにくくなっています。

コーポレートガバナンス・コードの原則1-4も、政策保有株式について、保有方針の開示、個別銘柄ごとの検証、議決権行使基準の策定を求めています。同コードの説明資料では、投資家側の懸念として、利益率・資本効率の低下、財務の不安定化、議決権行使を通じた監視機能の形骸化が挙げられています。JPX資料

つまり、政策保有株の問題は「株を持つか売るか」だけではありません。取締役会が資本コストを踏まえて検証しているか、保有効果を定量的に説明できるか、取引先の経営に対して独立した議決権行使ができるかという、企業統治そのものの問題になっています。

金融庁の開示強化と純投資振替の限界

金融庁も開示面から圧力を強めています。2025年1月に公布・施行された開示府令改正では、政策保有目的から純投資目的に変更した株式について、最近5事業年度以内の変更銘柄、株式数、貸借対照表計上額、変更年度、変更理由、変更後の保有・売却方針の開示が求められるようになりました。金融庁

背景には、政策保有株を形式上は純投資目的へ振り替えながら、実質的には取引関係維持のために持ち続けるケースへの問題意識があります。金融庁は有価証券報告書レビューでも、政策保有株式の保有目的などの開示を審査対象に含めています。金融庁

このため、企業は「純投資に変えたので問題は終わり」とは言いにくくなりました。売却までの方針、売却しない場合の投資採算、取締役会での検証内容を説明する必要があります。投資家にとっては、政策保有株の削減計画が本物か、単なる分類変更かを見分けやすくなったと言えます。

銀行・損保で進む株価リスクの圧縮

削減圧力が特に強いのは、銀行と損害保険会社です。銀行にとって政策保有株は、株価下落時に自己資本を揺らすリスク資産です。みずほフィナンシャルグループは2026年3月末基準で、国内上場株式6852億円のうち約45%を合理性なしと判定したと開示しています。みずほFG

三井住友フィナンシャルグループは、2024年3月末から5年間で政策保有株式残高6000億円の削減を目指し、2024年度に1850億円、2025年度に1240億円を削減したとしています。SMFG

損保業界では、企業向け保険料の事前調整問題を受け、政策保有株が取引先との過度な関係性を生む温床と見られました。SOMPOホールディングスは2030年度末までに上場政策株式の保有残高ゼロを目指し、2025年度に2924億円を削減、現中計期間の削減目標も9700億円以上に引き上げています。SOMPOホールディングス

こうした動きは、政策保有株の縮減が一部企業の資本政策ではなく、金融システムと企業統治をまたぐ構造改革になったことを示しています。

東京海上に見る売却資本の再配分戦略

バークシャー提携とM&A余地の拡大

今回の持ち合い株売却で象徴的なのが東京海上ホールディングスです。同社は2029年度末までに政策株式ゼロを目指し、2025年度には7456億円を売却、2026年度は4300億円の売却を計画しています。売却で創出した資本を、ROE向上に資する事業投資やリスクテイクへ充てる方針です。EDINET DB

東京海上の特徴は、政策株式の削減を「余剰資本の発生」として終わらせず、M&A戦略と結びつけている点です。2026年3月には、バークシャー・ハサウェイ傘下のNational Indemnity Companyとの包括的な戦略的パートナーシップを発表しました。提携の柱は、東京海上への戦略的出資、再保険分野での協働、M&Aなどにおける戦略的提携です。JPX適時開示

同開示によれば、National Indemnity Companyは東京海上の自己株式4820万7200株を取得し、発行済株式数に対する比率は2.49%です。処分価額の総額は2874億1132万6400円で、東京海上は希薄化影響を抑えるため、2874億円を上限とする自己株式取得も決議しました。

重要なのは、これが単なる資本提携ではないことです。バークシャー側の再保険能力と東京海上のグローバル保険基盤を組み合わせ、M&A実行の選択肢を広げる狙いがあります。東京海上はこれまでも海外保険会社の買収を通じて利益基盤を拡大してきました。政策株式の売却資本は、その延長線上で次の成長機会を取りに行く原資になります。

ただし、M&Aは万能ではありません。買収価格が高すぎれば、政策保有株を売って得た資本効率改善効果を相殺します。東京海上自身も、大型M&Aではバリュエーションを慎重に見極め、ボルトオン型M&Aを重視する姿勢を示しています。売却資金の使途は、案件の質と買収後の統合力によって評価が分かれます。

還元と成長投資を分ける配当方針

東京海上は政策株式の売却益を配当原資にそのまま含めるのではなく、IFRS移行後の修正純利益をベースに配当を決める方針を示しています。CFOレターでは、IFRS導入後は政策株式売却益を含むキャピタル損益が除かれるため、配当原資はIFRS修正純利益の3年平均とし、配当性向は原則50%としています。東京海上ホールディングス

これは企業統治上、重要な設計です。政策株式の売却益を毎期の利益成長のように扱えば、一時的な利益で配当を膨らませる危険があります。一方、本業利益に基づく配当方針を置けば、売却益は資本政策上の余力として、M&A、リスクテイク、自社株買いに振り分けやすくなります。

同社は2026年度の自己株式取得を年間4000億円とし、バークシャーへの第三者割当に伴う希薄化を相殺する2874億円の取得は、この4000億円に含めないと説明しています。2025年度決算電話会議では、バークシャーとのM&A協働などで資本政策の柔軟性が高まったことも、4000億円の自己株式取得を決めた要因として挙げています。東京海上ホールディングス

ここには、政策保有株売却の次の論点が表れています。売却そのものは第一段階です。第二段階では、解放された資本を、どの事業に、どのリスク量で、どの期待リターンを前提に配分するのかが問われます。自社株買いも、資本効率改善には有効ですが、成長投資の不足を覆い隠す手段になれば評価は下がります。

東京海上は、政策株式売却によって余剰資本が生まれる一方、不要な資本を理由なくため込む考えはないと説明しています。投資家にとっては、この言葉が実際の投資案件、還元方針、ROE改善に結びつくかが検証ポイントになります。

売却ブームで浮かぶ資本配分のリスク

政策保有株の縮減は、基本的には日本企業の資本効率を高める方向に働きます。ただし、売ればすべて解決するわけではありません。大量売却は市場需給に影響を与え、保有先企業の株価に下押し圧力をかける可能性があります。安定株主の減少により、企業は敵対的提案やアクティビストの要求にさらされやすくなります。

もっとも、それは悪い変化とは限りません。株主からの規律が働きやすくなることは、企業統治の本来の姿に近づく面もあります。問題は、企業がその圧力に対して、短期的な自社株買いや増配だけで応じることです。事業ポートフォリオの見直し、低採算事業からの撤退、成長領域への投資が伴わなければ、政策保有株の売却は単なる財務イベントに終わります。

また、売却益が大きい年度は、業績の実力が見えにくくなります。損益計算書上は利益が膨らんでも、継続的な収益力が改善したとは限りません。東京海上のように、売却益を配当原資から切り離す設計は、この点で投資家との対話を安定させる効果があります。

さらに、政策保有株を減らした後に、新たな資本提携や議決権合意が増える場合も注意が必要です。東京海上とNational Indemnity Companyの提携では、同社が東京海上取締役会の推奨に沿って議決権を行使する旨の合意が開示されています。保有比率は2.49%で、東京海上はガバナンスへの影響は軽微と説明していますが、資本関係を伴う提携では、経済合理性と統治上の独立性を継続的に確認する必要があります。

投資家が次に見るべき三つの検証軸

政策保有株の売却局面で、投資家が確認すべき点は三つです。第一に、保有残高の大きさです。純資産に対する政策保有株の比率、売却合意済み銘柄の有無、取締役会で合理性なしとされた割合を見れば、削減余地が把握できます。EDINET DBの集計では、直近提出有価証券報告書ベースで、トヨタ自動車、京セラ、NTTなどに政策保有株の簿価が大きく残っています。EDINET DB

第二に、売却資本の使途です。M&Aなら買収価格、期待ROIC、統合計画、自社株買いなら取得規模と株価水準、成長投資なら投下資本利益率を確認すべきです。第三に、開示の質です。政策保有から純投資への振替、個別銘柄の保有合理性、議決権行使基準が具体的に示されている企業ほど、改革の実効性を評価しやすくなります。

持ち合い株の解消は、日本企業の古い慣行をほどく作業です。しかし、その先にあるのは「株を売った会社」ではなく、「資本を稼ぐ事業へ振り向けられる会社」かどうかの選別です。8.8兆円規模の売却は、企業統治改革の到達点ではなく、資本配分の巧拙が問われる新しい競争の始まりです。

参考資料:

鈴
鈴木 麻衣子

企業経営・コーポレートガバナンス

企業経営・コーポレートガバナンスを専門に取材。経営戦略の成功事例から不正会計の構造的問題まで、企業の「あり方」を鋭く問う。

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