金が米国債を逆転、外貨準備に映るドル離れの地政学リスク構造変化
金と米国債の逆転が示す準備資産の再評価
世界の中央銀行が保有する準備資産の構成で、金が米国債を上回ったことは、単なる商品市況のニュースではありません。欧州中央銀行の2026年版報告では、2025年末時点で金の比率が27%、米国債が22%、ユーロ建て準備が15%とされ、金は単一資産として米国債を抜きました。
ここで重要なのは、ドル体制が突然崩壊したという読み方ではなく、準備運用の目的が変わり始めたという点です。中央銀行の準備資産は、危機時の輸入代金、為替介入、対外債務返済、金融市場の信認維持に使われます。流動性と安全性が最優先ですが、近年は「誰の制度に依存するか」という政治的な問いが強まっています。
外貨準備という言葉はしばしばドル預金や国債だけを連想させますが、制度上は金、SDR、IMFリザーブポジションも含む広い概念です。つまり今回の逆転は、利回りを生む米国債よりも、発行体を持たない金の安全保障上の価値が再評価されたことを示しています。
中央銀行が金を増やす安全保障上の動機
制裁リスクを避ける発行体のない資産
金購入の背景には、2022年以降に強まった金融制裁への警戒があります。EU理事会は、ロシア中央銀行の資産・準備について、G7、EU、豪州の管轄下で約2600億ユーロが凍結されたと説明しています。これは、準備資産が「安全資産」であっても、保管場所と決済制度によって利用不能になり得ることを各国に示しました。
IMFの分析も、制裁が過去に中央銀行の準備運用を通貨から金へ一部シフトさせた可能性を指摘しています。金は米国債のように利息を生まず、輸送や保管にも費用がかかります。それでも、国内に保管できる資産であれば、発行国の法制度や決済網に直接縛られにくいという利点があります。
この性質は、とくに新興国や地政学リスクを抱える国にとって大きいです。World Gold Councilの2025年中銀調査では、今後12カ月で世界の中央銀行の金準備が増えると見た回答が95%に達しました。自国の金準備を増やす見通しを示した回答も43%と、同調査で最高水準です。
ただし、金を持てば制裁リスクを完全に消せるわけではありません。IMFのワーキングペーパーは、金をロンドンやニューヨークなど主要市場の保管機関に置き、貸出やスワップに使う場合、別の形で制裁リスクが戻ると論じています。国内保管を増やせば政治的な安全性は高まりますが、市場で機動的に使う利便性は下がります。
新興国に広がる国内保管と危機対応
金を増やす理由は、反米姿勢だけでは説明できません。World Gold Councilの調査では、中央銀行が金を持つ理由として、危機時のパフォーマンス、分散効果、価値保存機能が上位に挙がっています。新興国の回答では、インフレ懸念や地政学的不安定さを重視する割合が先進国より高いことも示されています。
2025年の金市場は、中央銀行だけでなく投資家需要にも支えられました。World Gold Councilの年次統計では、2025年の金需要は5002.3トン、投資需要は2175.3トンと前年から84%増え、金ETFは801.2トンの純増でした。中央銀行と公的機関の需要は863.3トンで、2022年から2024年までの各年1000トン超からは減りましたが、高水準を保ちました。
価格上昇も構成比を押し上げました。同じ統計では、2025年のLBMA金価格の年平均が1オンス3431.5ドルと前年から44%上昇し、年間で53回の最高値更新がありました。つまり金の比率上昇は、中央銀行が買い増した効果と、保有済み金の評価額が膨らんだ効果の両方で起きています。
この点は「各国が一斉に米国債を売って金に替えた」という単純な物語を避けるうえで大切です。中央銀行の準備運用は、政治的な意思表示だけでなく、価格、流動性、為替介入の必要性、国内金融システムの安定を同時に見ます。金の上昇は地政学的な意思決定であると同時に、市場価格の結果でもあります。
ドル体制が崩れない理由と米国債の弱点
COFERとBISが示すドルの粘着性
金が米国債を抜いたとしても、ドルの国際通貨としての地位はなお厚いです。IMFのCOFERによると、2025年第4四半期の世界外貨準備は13.14兆ドルで、配分が判明している外貨準備に占める米ドル比率は56.77%でした。ユーロは20.25%、人民元は1.95%にとどまっています。
ここで注意すべきなのは、COFERが外貨建て準備の通貨構成を示す統計であり、金を含む準備資産全体の構成とは別物だという点です。ECBの議論は、金を含めた公式準備資産の比較です。したがって、金が米国債を上回った事実と、外貨準備の中心がなおドルである事実は同時に成り立ちます。
国際決済や為替市場でもドルの粘着性は明確です。BISの2025年為替調査では、店頭為替取引の1日平均は9.6兆ドルとなり、米ドルは全取引の89.2%で片側に登場しました。ユーロは28.9%、人民元は8.5%です。通貨ペアの両側を数えるため合計は100%を超えますが、ドルの圧倒的な流動性は変わっていません。
この流動性こそ、中央銀行が米国債を簡単に捨てられない理由です。大規模な為替介入、金融危機時のドル資金供給、輸入代金の決済には、すぐ売れて価格発見が深いドル資産が必要です。金は究極の信用リスク回避資産になり得ますが、日々の決済通貨ではありません。
金利上昇と公式部門保有の調整
一方で、米国債には以前より重い弱点が見えています。FRBのH.4.1統計では、2026年5月27日時点で外国公的・国際機関向けにカストディ保管される証券は2兆9723億ドル、うち市場性米国債は2兆6866億ドルでした。市場性米国債は前年同週比で2245億ドル減っており、公式部門の保有調整が続いています。
ECB報告も、2026年3月にニューヨーク連銀で保管される外国公的機関の米国債価値が2.7兆ドル規模まで落ち、2012年以来の低水準になったと指摘しています。これは米国債市場全体の外国人需要が消えたことを意味しませんが、中央銀行に近い主体の持ち方が変わっていることは示唆します。
米財務省の年次調査では、2025年6月末の外国人による米国証券保有は35.349兆ドルと大きく、うち米長期債は13.840兆ドルでした。日本や中国もなお大口保有国です。つまり、民間投資家、年金、ファンド、カストディ経由の資金は米国市場に深く残っています。問題は、中央銀行にとって米国債が「無条件の安全資産」ではなくなったことです。
金利上昇も保有判断に影響します。米国債は利息を生みますが、金利が上がる局面では保有債券の価格が下がります。さらに米財政赤字の拡大が続けば、供給増加と金利上昇への警戒が準備運用者に意識されます。金は利息を生まないため高金利環境に弱い面がありますが、信用リスクと政治リスクを切り離せる点が補完的な価値になります。
金偏重が招く流動性と市場価格の副作用
金へのシフトには副作用もあります。第一に、金は危機時に価値保存手段として働く一方、必要な通貨に即座に変えるには市場売却やスワップが必要です。外貨準備の本来目的が輸入決済や対外債務返済である以上、準備の全体を金へ寄せすぎれば、流動性管理が難しくなります。
第二に、価格変動が大きいです。2025年の金価格上昇は、保有国のバランスシートを押し上げましたが、逆方向に動けば準備資産の評価額も下がります。中央銀行は民間投資家のように短期損益だけで売買しませんが、国内通貨防衛が必要な局面では、評価損や売却タイミングが政治問題化する可能性があります。
第三に、金が地政学的な保険として買われるほど、市場価格に政治リスクのプレミアムが乗りやすくなります。中東情勢、米中対立、制裁拡大、資源輸送路の不安が強まれば、中央銀行だけでなく個人・機関投資家の需要も同じ方向に動きます。価格上昇は金保有国を富ませる一方、新規に買う国の取得コストを高めます。
また、金が増えることは必ずしも人民元やユーロへの大転換を意味しません。IMFはドル比率の低下が長期的に進んでいる一方、ユーロ、円、ポンドといった伝統的通貨の比率上昇だけでは説明できないと整理しています。非伝統的通貨と金への分散が進む構図であり、単一の新基軸通貨がドルに置き換わる段階ではありません。
日本企業と投資家が点検すべき通貨リスク
日本の読者にとって、この変化は遠い中央銀行の資産配分にとどまりません。準備資産の再編は、米国債利回り、ドル円相場、金価格、資源価格、地政学リスクの評価に波及します。輸入企業はドル調達コストと資源価格を、金融機関は外貨建て債券の金利リスクを、投資家は金を単なるインフレヘッジではなく地政学ヘッジとして見直す必要があります。
ただし、短絡的な「ドル崩壊」論に乗るべきではありません。BISの為替統計が示すように、ドルは決済とヘッジの中心に残っています。むしろ重要なのは、ドルを使い続けながら、中央銀行が金や非伝統的通貨で政治的な保険を積み増す二層構造です。
今後注視すべき指標は三つあります。第一に、IMFのCOFERでドル比率と「その他通貨」の比率がどう動くか。第二に、World Gold Councilが示す中央銀行の金購入量と、購入国の顔ぶれです。第三に、FRBや米財務省の統計で、外国公的部門の米国債保有が一時的な調整か、長期的な減少かを確認することです。
金が米国債を抜いた出来事は、準備通貨秩序の終わりではなく、信認の条件が変わったことを示す節目です。流動性のドル、安全保障上の金、地域通貨としてのユーロや人民元が並存する時代には、企業も投資家も「どの通貨で稼ぎ、どの資産で守るか」を以前より細かく設計する必要があります。
参考資料:
- The international role of the euro, June 2026
- Gold Demand Trends: Q4 and Full Year 2025 | World Gold Council
- Central Banks | World Gold Council
- Central Bank Gold Reserves Survey 2025 | World Gold Council
- Perspectives on gold reserves | World Gold Council
- Strategic Considerations in Reserves Management | World Gold Council
- IMF Data Brief: Currency Composition of Official Foreign Exchange Reserves
- Dollar Dominance in the International Reserve System: An Update | IMF
- De-Dollarization? Diversification? Exploring Central Bank Gold Purchases and the Dollar’s Role in International Reserves | Federal Reserve
- Gold as International Reserves: A Barbarous Relic No More? | IMF
- OTC foreign exchange turnover in April 2025 | BIS
- Federal Reserve Balance Sheet: Factors Affecting Reserve Balances - H.4.1
- Report on Foreign Portfolio Holdings of U.S. Securities at End-June 2025 | U.S. Department of the Treasury
- Immobilised Russian assets: Council decides to set aside extraordinary revenues | Council of the EU
- Gold surpasses US Treasurys as top central bank reserve asset | Investing.com
- Gold overtakes US Treasuries in global reserve shift: ECB | Canadian Mining Journal
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