日本は米国債を本当に売れないのか、円買い介入の自由度を検証する
はじめに
円安が進むたびに、市場ではほぼ決まり文句のように「日本は米国債を売れない」という説明が出てきます。米国債を売れば米長期金利を押し上げ、日米関係も刺激しかねないため、日本の円買い介入には大きな制約があるという見方です。たしかに乱暴な売却は現実的ではありません。
ただし、公開資料を丁寧に追うと、この通説はかなり単純化されています。日本の為替介入は、財務省が管理する外国為替資金特別会計と外貨準備を使って行われ、その制度設計自体が「必要時にドル資産を円買いへ振り向ける」ことを前提にしています。問題は「売れるか売れないか」の二択ではなく、どの資産を、どの順番で、どの市場環境で使うかです。
2026年3月末時点で、日本の外貨準備は総額1兆3747億ドル、うち外国為替資産は1兆1618億ドル、その内訳は証券が1兆0001億ドル、預金が1617億ドルでした。足元ではイラン情勢を受けた原油高と安全資産としてのドル買いが円を圧迫し、3月末には円相場が1ドル160円近辺まで下落したと報じられています。本記事では、制度、実務、過去の介入実績の三つをつなぎ、「日本は米国債を本当に売れないのか」を検証します。
「売れない神話」を崩す制度の実像
介入権限と実務の所在
まず押さえるべきなのは、為替介入の権限と執行の分担です。日銀の解説によれば、日本では為替介入の法的権限は財務大臣にあり、日銀はその代理人として実務を執行します。使われる財布は外国為替資金特別会計、いわゆる外為特会です。
この点はかなり重要です。市場ではしばしば、日銀が金融政策で円を動かす話と、財務省が為替介入で円を買う話が混同されます。しかし制度上は別物です。日銀の利上げや国債買い入れは金融政策であり、介入は財務省の判断で外為特会を使って実施されます。
日銀の説明はさらに踏み込んでいます。ドル売り・円買い介入の際には、外為特会が保有するドル資金を使って円を買うと明記しています。逆に、ドル買い・円売り介入の際には、政府短期証券であるFBを発行して円資金を調達します。つまり、日本の外貨準備は、円買い介入のために「いざという時に使う」前提で積み上がっている資金だということです。
外為特会の資産と負債の構造
財務省の外為特会の説明も、この構図を裏づけます。同省は、外為特会が円売り・外貨買い介入で取得した外貨を資産として保有し、その際に円を調達するため発行した政府短期証券を負債として持つと説明しています。要するに、過去の円売り介入で積み上がった外貨資産が、将来の円買い介入の原資になります。
ここで見落とされがちなのは、外貨準備の保有目的です。財務省は、外為特会が保有する外貨資産の運用目的を「必要な外国為替等の売買等に備え、十分な流動性を確保すること」としています。安全性と流動性を最優先しつつ、その範囲で収益性を追求するという建て付けです。
運用対象も、流動性を意識した設計です。財務省資料では、国債、政府機関債、国際機関債、資産担保証券、外国中央銀行や信用力の高い金融機関への預金などで運用するとしています。さらに、一定規模の外貨資産を極めて短期間に、低コストで、可能な限り市場に影響を与えず決済に使えるよう流動性リスクを管理すると明記しています。
この制度設計を見る限り、「米国債を売ることは制度上ほぼ不可能」という理解は正確ではありません。より正確なのは、「円買い介入のために外貨資産を使うことは制度の本旨だが、売却や換金のやり方には市場安定上の配慮が強く求められる」という整理です。
自由度を生む流動性設計
預金と証券の二層構造
では、実際にどれほどの自由度があるのでしょうか。直近の2026年3月末時点の外貨準備を見ると、外国為替資産1兆1618億ドルのうち、証券が1兆0001億ドル、預金が1617億ドルでした。ここで大事なのは、最初からすべての介入資金を米国債売却でひねり出す必要はないという点です。
市場実務では、まず手元のドル預金で円買いを行い、その後に証券売却や償還で預金を補充する方が自然です。2024年5月のロイターのコラムでも、専門家の見立てとして、日本の円買い介入はまず日銀が保有するドル預金で賄われ、その後にごく短い年限の米国債や短期証券の売却で補充されるとの見方が示されました。これは長期ゾーンへの衝撃を抑えやすい方法です。
実際、同コラムは日本が使えるドル預金を最大1550億ドル程度とみる推計を紹介していました。2026年3月末の公表値で見ても、預金は1617億ドルあり、この見立てと大きく矛盾しません。少なくとも、相場変動をなだらかにする単発の介入であれば、いきなり長期国債を大量に投げ売る必要は薄いと考えられます。
さらに、財務省が公表する外貨準備テンプレートには、「securities lent and on repo」という項目があり、証券貸借やレポを伴う運用の存在が示されています。これは直ちに介入資金化を意味するものではありませんが、外貨準備が単純な現物保有だけでなく、担保付取引も含む形で流動性管理されていることを示す材料です。現金化の手段は、現物売却だけではありません。
2024年介入が示した換金余地
制度論だけでは抽象的なので、実例を見ます。財務省によると、日本は2024年4月から6月に合計9兆7885億円の為替介入を行い、そのうち4月29日に5兆9185億円、5月1日に3兆8700億円のドル売り・円買い介入を実施しました。これは単発としても四半期合計としても非常に大きな規模です。
その直後の外貨準備の変化は示唆的です。4月末時点で証券は9780億ドル、預金は1577億ドルでしたが、5月末には証券が9276億ドルへ約504億ドル減る一方、預金は1589億ドルへやや増えています。証券価格の変動要因もあるため断定はできませんが、評価要因だけでなく、証券側を使って介入原資を補った動きがあったとみるのが自然です。
ここで重要なのは、預金が枯渇していないことです。もし「米国債は売れない」が事実なら、大規模介入後に預金が大きく減ったまま戻らない構図になりやすいはずです。ところが実際には、証券が大きく減る一方で預金はむしろ維持されています。これは、外貨準備のなかで証券から預金へと流動性を移し替える運用が機能した可能性を示します。
2022年の介入実績も補強材料です。財務省は、2022年7月から9月に2兆8382億円、10月から12月に6兆3499億円のドル売り・円買い介入を公表しています。円買い介入は例外的な出来事ではありますが、必要時に実行される政策手段として現に運用されてきました。「できない」ではなく、「頻繁には使わないが、必要なら使う」が実態に近いです。
米国債売却が難しい本当の理由
市場インパクトと外交シグナル
それでも、なぜ「売れない」という見方が根強いのでしょうか。第一の理由は、市場インパクトです。日本は2026年1月末時点で12253億ドルの米国債を保有する最大の海外保有国です。ただし、同じTIC統計では海外全体の保有残高は93058億ドル、うち海外公的部門だけでも39548億ドルあります。日本の存在は大きい一方で、市場全体そのものではありません。
ここから導けるのは、少量から中規模の売却なら即座に米国債市場を揺るがすとは限らない一方、長期ゾーンを狙った大規模で連続的な売りは話が別だということです。ロイターの2024年コラムも、短期ゾーン中心の売却なら吸収されやすいが、長期戦になれば2年から5年ゾーンを中心に金利への波及が意識されると指摘していました。
第二の理由は、外交シグナルです。日本の財務相は2025年5月、米国債保有の主目的は必要時の円買い介入に十分な流動性を確保することだと改めて述べました。裏を返せば、日本は「介入資金として使う」こと自体は否定していません。否定しているのは、通商交渉や政治圧力のカードとして恣意的に売ることです。
この違いは大きいです。市場安定のための限定的な換金は制度目的に沿いますが、米国への圧力としての売却は別の意味を帯びます。日本が避けたいのは後者であり、前者まで封じているわけではありません。通説が強すぎるのは、この二つの論点を混同しているからです。
長期戦で増すコストと限界
もっとも、自由度には当然ながら限界があります。円安が一時的な投機主導ではなく、米金利高や原油高、日本の低実質金利といったファンダメンタルズに支えられている場合、介入だけで流れを変えるのは難しくなります。2026年3月31日のロイター報道でも、円安の背景としてイラン戦争に伴う安全資産としてのドル需要が指摘されていました。
当局自身も、介入だけに頼る構図から距離を取り始めています。4月12日のロイター報道では、赤沢亮正経済再生相が、円高が輸入物価を抑える手段として日銀の政策も選択肢になり得るとの認識を示しました。市場では4月28日の会合で利上げが行われる確率を約60%と織り込んでいるとも報じられています。
要するに、本当の制約は「米国債を1枚も売れない」ことではありません。介入が長期戦になるほど、外貨準備の減少よりも、介入がファンダメンタルズに逆らうコスト、米国債市場への波及、そして政策パッケージ全体の整合性が問題になります。円買い介入は時間を買う手段であり、流れを反転させるには金融政策やエネルギー価格の落ち着きが必要になる局面が多いです。
注意点・展望
この論点でよくある誤解は二つあります。ひとつは「日本は米国債を絶対に売れない」、もうひとつは「その気になればいくらでも売って円安を止められる」です。実態はその中間です。制度上も実務上も売却や換金の自由度はありますが、最適解は預金、短期証券、償還、レポなどを組み合わせて市場への衝撃を抑える運用になります。
もうひとつ重要なのは、外貨準備の残高だけでは介入余力を測れない点です。見るべきは、預金の厚み、証券の年限構成、介入の連続性、そして円安の背景が投機なのか実需なのかです。2026年春の相場では、イラン情勢による原油高とドル選好が重なっており、当局が介入警戒と利上げ観測を並行して使うのは自然な対応です。
今後の焦点は三つあります。第一に、円相場が160円台でどれだけ滞留するか。第二に、4月28日の日銀会合で為替と物価の関係がどう位置づけられるか。第三に、財務省の外貨準備統計で預金と証券の内訳がどう動くかです。もし預金を大きく取り崩した後に証券残高が減り始めれば、介入が実際に第二段階へ進んだサインとして読めます。
まとめ
公開資料に基づけば、「日本は米国債を売れない」は言い過ぎです。外為特会はそもそも為替介入のための勘定であり、ドル売り・円買い介入には保有ドル資産を使うと日銀が明記しています。財務省も、外貨資産の運用目的を十分な流動性確保とし、短期間で低コスト、かつ市場に極力影響を与えず使えるよう管理していると説明しています。
したがって、本当の論点は「売れるかどうか」ではなく、「どこまで、どの年限で、どの市場環境なら売るべきか」です。短期証券や預金を軸にした換金には相応の自由度があります。一方で、長期戦のなかで米国債を大きく売り続けることには市場面でも政策面でも強い制約があります。円買い介入の自由度は意外に広いが、無限ではない。その中間の現実こそが、いまの日本の為替政策を理解する鍵です。
参考資料:
- International Reserves/Foreign Currency Liquidity (as of the end of March 2026) | Ministry of Finance
- Foreign Exchange Intervention Operations (Monthly Release) | Ministry of Finance
- Foreign Exchange Intervention Operations (April – June 2024) | Ministry of Finance
- Foreign Exchange Intervention Operations (July – September 2022) | Ministry of Finance
- Foreign Exchange Intervention Operations (October – December 2022) | Ministry of Finance
- International Reserves/Foreign Currency Liquidity (as of the end of April 2024) | Ministry of Finance
- International Reserves/Foreign Currency Liquidity (as of the end of May 2024) | Ministry of Finance
- Outline of the Bank of Japan’s Foreign Exchange Intervention Operations | Bank of Japan
- 外国為替資金特別会計 | 財務省
- 外国為替資金特別会計が保有する外貨資産に関する運用について | 財務省
- Treasury International Capital Data for January 2026 | U.S. Department of the Treasury
- Table 5: Major Foreign Holders of Treasury Securities | U.S. Department of the Treasury
- Japan brands yen falls as ’speculative’ as Iran war ignites sell-off | Reuters via Investing.com
- BOJ policy to boost yen could be an option to curb inflation, Japanese minister says | Reuters via Investing.com
- Japan says no plan to threaten Treasuries sale in US trade talks | Reuters via Investing.com
- Column-If Japan exhausts intervention slush fund, Treasuries may wobble: McGeever | Reuters via Investing.com
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