日立フィジカルAI総力戦、徳永改革が問う世界市場の現場競争力
過去最高益でも消えない日立の焦燥
日立製作所は2026年3月期に、売上収益10兆5867億円、親会社株主に帰属する当期利益8023億円を確保しました。外部報道では純利益が過去最高と伝えられ、2027年3月期も8500億円を見込むなど、数字だけを見れば復活局面は明確です。
それでも徳永俊昭社長兼CEOの経営課題は、過去の再建成功を守ることではありません。日立が掲げるフィジカルAIは、生成AIの流行語を現場に持ち込むだけの話ではなく、送電網、鉄道、工場、ビル設備といった社会インフラを、データで継続的に改善する収益モデルへ変える試みです。焦点は、重い現場を持つ企業がAI時代に再び競争力の源泉になれるかどうかです。
構造改革で組み替えた稼ぐ土台
赤字から始まった選択と集中
日立の現在地を理解するには、2009年3月期にさかのぼる必要があります。同社は当時、親会社株主に帰属する最終損益で7873億円の赤字を計上しました。世界金融危機だけでなく、総合電機として広げ過ぎた事業構造、低採算事業の固定費、資本効率の低さが一気に表面化した局面でした。
その後の日立は、単に不採算事業を削るだけでなく、どの領域で世界市場を取りにいくかを絞り直しました。家電やディスプレーのような規模競争に巻き込まれやすい領域から距離を置き、社会インフラ、制御、デジタル、保守サービスを組み合わせる方向に重心を移しました。製造業としての資産を捨てるのではなく、現場データを持つ事業だけを残して磨く改革だったと言えます。
この選択は、短期的には売上規模の縮小を伴います。しかし、利益率とキャッシュ創出力を高めるには、総花的な売上よりも、顧客の基幹設備に長く入り込む事業が重要です。日立が「IT、OT、プロダクト」を強みとして繰り返し打ち出すのは、製品単体ではなく、運用改善まで含めた継続収益を狙うためです。
買収と売却が変えた収益構造
転機の一つが、ABBのパワーグリッド事業買収です。日立は2020年、ABBから分離された電力網事業会社に80.1%出資し、約7500億円規模の投資で日立ABBパワーグリッドを発足させました。世界的な電力需要、再生可能エネルギー、データセンター向け送配電設備の増加を考えると、この買収は現在のエナジー事業の中核になっています。
もう一つの大型投資が、2021年に発表したGlobalLogic買収です。買収総額は96億ドル規模で、当時の資料では2万人超の専門人材と、デジタルエンジニアリング能力をLumadaに取り込む狙いが示されました。工場や鉄道の現場を知る日立に、ソフトウェア開発と顧客体験設計の人材を加えることで、ハード中心の会社からデジタル実装会社へ変わる布石になりました。
一方で、売却も加速しています。空調合弁会社では、日立グローバルライフソリューションズが保有する40%持ち分をボッシュへ譲渡し、譲渡価格は約14.6億ドル、約2110億円と公表されました。日立は2026年3月期に事業再編等利益約1540億円を見込むと説明しており、資本効率を高める再配置の一例です。
自動車部品のAstemoでも、日立は2025年12月に保有株式21%を本田技研工業へ譲渡する契約を結びました。譲渡価格は約1523億円で、完了後の議決権比率は日立19%、ホンダ61%、JICC-01が20%となる予定です。これは自動車部品の成長性を否定する動きではなく、ソフトウェア定義車両時代に主導権を持つべき主体をホンダ側へ寄せる判断です。
過去最高益が示す到達点
2026年3月期の決算は、こうした構造改革の成果を数字で示しました。売上収益は前期比8%増の10兆5867億円、調整後営業利益は1兆1992億円、調整後EBITAは1兆3114億円です。利益の伸びを支えた要因として、日立はLumada事業の拡大、エナジーの送電設備需要、国内デジタル需要、モビリティの鉄道信号事業を挙げています。
2026年7月に発表された2027年3月期第1四半期も、売上収益は2兆7095億円、調整後営業利益は2943億円と伸びました。ただし、親会社株主帰属利益は1894億円で前年同期をわずかに下回っています。売上と事業利益の成長が続いても、金融収益や税負担、事業再編のタイミングで最終利益は揺れます。
ここに日立の危機感があります。再建は終わっても、AI、電力、鉄道、産業設備の競争は世界企業との総力戦です。過去最高益はゴールではなく、資本をどこへ投じ、どの現場データをサービス化するかを迫る出発点になっています。
HMAXが狙う現場データの収益化
Lumada 3.0の数値目標
徳永体制の中核にあるのが、経営計画「Inspire 2027」です。2026年4月時点の進捗資料では、2027年度に向けて売上成長率7〜9%、調整後EBITAマージン13〜15%、ROIC12〜13%、キャッシュフローコンバージョン90%超、Lumada売上収益比率50%、Lumada調整後EBITAマージン18%を掲げています。
2026年3月期の実績は、調整後EBITAマージン12.4%、ROIC12.4%、キャッシュフローコンバージョン103%、Lumada売上収益比率40%、Lumada調整後EBITAマージン16%でした。目標に近づいている一方で、Lumadaを全社収益の半分まで高めるには、既存設備を売る会社から、設備運用を継続的に改善する会社へ変わる必要があります。
HMAX by Hitachiは、そのための旗印です。日立はCES 2026で、HMAXをモビリティ、エナジー、インダストリーへ広げる方針を示しました。単なるAI機能の寄せ集めではなく、センサーや設備から得るデータ、現場のドメイン知識、生成AIやエージェントAI、フィジカルAI、パートナーエコシステムを一体で使う設計です。
三つの現場に広がるHMAX
モビリティでは、鉄道の車両、信号、周辺インフラからデータを集め、保守や運行の効率化につなげます。HMAX Mobilityは、日立レールのデジタルアセットマネジメントとして2024年に導入され、公開資料では2000本超の列車に展開されていると説明されています。鉄道は安全性の要求が高く、AIの実装には説明可能性と検証が欠かせません。その分、一度入り込めば長期のサービス収益につながりやすい領域です。
エナジーでは、送電網の保守、再生可能エネルギー接続、データセンター向け電力供給が重要になります。日立の資料では、HMAX Energyの例として、送配電設備のインシデント対応時間を90%削減する目標が示されています。AI時代のデータセンターは電力設備そのものを成長制約にします。変圧器や送電網だけでなく、設備状態の監視、故障予兆、復旧支援まで収益化できるかが焦点です。
インダストリーでは、製造ライン、物流、設備保全、ビルメンテナンスが対象になります。日立は、HMAX Industryでエレベーター保守技術者3万人の安全確保と、月2000時間の生産性改善を例示しています。現場作業員の不足が続く中で、AIは人員削減の道具というより、熟練者の判断を標準化し、少人数で安全に設備を回す仕組みとして問われます。
100Hz制御に宿る日立らしさ
日立が2026年3月に公表したフィジカルAI技術は、現場で自律的に学習し、自らの動作を最適化する点を特徴とします。対象は製造、設備保守、物流などで、柔らかい部材やケーブルを扱うワイヤハーネス組み立てのように、従来の自動化が難しかった作業も視野に入れています。
技術面で注目されるのは、最大100Hz、つまり1秒間に最大100回の動作指令を出すAIモデルです。従来ロボットでは繊細な力加減が難しい場面でも、視覚、力覚、触覚のデータを使い、柔軟物に接触する力の大きさや方向を制御しやすくなります。大規模言語モデルのような巨大モデルではなく、数十万程度のパラメータ規模で省電力に学習・推論できる設計も、現場実装を意識したものです。
この方向性は、日立の製造業らしさと合っています。AIをクラウド上の知識処理に閉じ込めず、設備の振動、温度、音、電流、作業手順と結びつけるからです。現場は例外だらけで、部材の個体差、設備の老朽化、作業者の癖、工程変更が日常的に発生します。そこで必要なのは、完璧な一回限りのモデルではなく、現場データを取り込みながら改善し続ける仕組みです。
日立は2026年4月、Lumada Innovation Hub Tokyo内にフィジカルAI体験スタジオを開設しました。顧客やパートナーと実機を見ながら課題を詰める拠点であり、研究発表から商談、検証、実装へ進めるための場です。社会インフラ企業のAI競争では、デモの派手さよりも、止められない設備にどう段階導入するかが勝負になります。
徳永体制を試す現場AIの実装リスク
フィジカルAIの難しさは、失敗がデジタル空間で完結しないことです。発電設備、鉄道、工場、昇降機では、AIの判断ミスが安全、品質、納期、社会機能に直結します。日立とNVIDIAが2026年7月に発表した協業では、IWIMとNVIDIA Cosmosを接続し、デジタルツイン上で制御を事前検証する方針が示されました。これは、現場導入の最大の壁が「動くか」ではなく「安全に動かし続けられるか」にあることを示しています。
二つ目のリスクは、ベンダーフリーな統合の難しさです。顧客の現場には、日立製ではない設備や古い制御システムが混在しています。HMAXが真に価値を出すには、複数メーカーの装置、複数のAIエージェント、既存の保全システムをつなぐ必要があります。データ主権を守りながら統合するには、技術だけでなく契約、責任分界、サイバーセキュリティの設計が不可欠です。
三つ目は、人材と営業の問題です。フィジカルAIは、汎用ソフトのように売って終わりにできません。現場の制約を読み、業務プロセスを変え、投資対効果を顧客と詰める人材が必要です。日立がPhysical AI FDEチームを掲げ、GlobalLogicのデジタルエンジニアリング力と日立のOT知見を組み合わせるのは、この実装ギャップを埋めるためです。
競争環境も厳しくなっています。NVIDIAは2026年、Cosmos、Isaac、GR00Tなどを軸に、ロボット開発のエコシステムを広げています。FANUC、ABB Robotics、安川電機、KUKAなどの産業ロボット勢も、シミュレーションとエッジAIを取り込んでいます。日立の優位性はロボット単体ではなく、電力、鉄道、産業設備をまたぐ社会インフラの運用知見にありますが、その知見をソフトウェアとして再利用できなければ差別化は薄れます。
製造業が日立から読む投資判断軸
日立のフィジカルAI総力戦は、日本企業の再成長を考えるうえで重要な試金石です。2009年3月期の巨額赤字から、ABB電網、GlobalLogic、空調、Astemoなどの買収・売却を経て、同社は「重い設備を持つこと」を負担から武器へ変えようとしています。鍵は、現場データをHMAXとして継続収益化し、Lumada比率を計画通り高められるかです。
投資家や産業関係者が見るべき指標は、純利益だけではありません。Lumada売上収益比率、調整後EBITAマージン、エナジーとモビリティの受注残、HMAXの導入件数、フィジカルAIの実証から商用化への移行速度が重要です。過去最高益は日立の再建の証明ですが、徳永体制の本当の評価は、AI時代の社会インフラで世界標準の運用基盤を握れるかで決まります。
参考資料:
- Hitachi Announces Consolidated Financial Results for Fiscal 2025
- Outline of Consolidated Financial Results for the Year Ended March 31, 2026
- Progress of “Inspire 2027” Management Plan
- Hitachi Announces Consolidated Financial Results for the First Quarter Ended June 30, 2026
- Financial Results for the Year ended March 31, 2009
- Message from Top Management : Hitachi Global
- 日立、フィジカルAIの社会実装をお客さまと協創する「フィジカルAI体験スタジオ」を開設
- Hitachi develops Physical AI technology that learns and optimizes its own motion behavior on-site
- フィジカルAIによるLumada 3.0の成長に向けて、事業体制を強化
- Hitachi Launches Expanded HMAX Solutions Accelerating Social Innovation Globally Across Industries
- Hitachi ignites CES 2026 unveiling key collaborations with NVIDIA, Google Cloud and Nozomi Networks
- 日立とNVIDIA、フィジカルAIの統合制御による、現場全体の自律化とHMAXの進化に向けて協業
- NVIDIA and Global Robotics Leaders Take Physical AI to the Real World
- 日立がABB社のパワーグリッド事業の買収を完了し、日立ABBパワーグリッド社として営業開始
- Hitachi to Acquire GlobalLogic, a Leading U.S.-based Digital Engineering Services Company
- Hitachi completes capital reorganization of air conditioning joint venture
- Astemo株式会社株式の一部譲渡について
- 日立製作所、純利益が過去最高
- 日立は2025年通期で増収増益 - Lumada事業拡大で過去最高益の8023億円
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