通勤時間の最適解は何分か、米研究が示す44分と職場設計の境界線
44分研究が問い直す通勤の価値
通勤時間は、単なる移動コストではなくなっています。出社回帰が進む一方で、採用市場では柔軟な働き方が処遇の一部として見られ、従業員は通勤に失う時間を以前より明確に意識するようになりました。
米学術誌Social Currentsに掲載された2025年の研究は、米国の共働き就業者568人を対象に、片道通勤時間と心理的苦痛の関係を分析しました。結果は「短いほどよい」という単純な線形ではなく、心理的苦痛が最初の44分までは低下し、その後に上昇するU字型でした。本稿では、この44分を絶対的な正解ではなく、働く人と企業が通勤をどう設計するかを考えるための分岐点として読み解きます。
米研究が示したU字型のメンタル負荷
44分は「万人の理想」ではない条件
Social Currentsの研究で重要なのは、44分という数字そのものよりも、効果が出た条件です。分析対象は米国の共働き関係にある就業者で、研究は横断調査に基づきます。つまり、同じ人を長期間追って通勤時間を変えた場合の因果効果を直接測ったものではありません。
さらに、U字型の関係は、仕事のプレッシャーや家事負担が高い人で特に確認されました。家でも職場でも要求水準が高い人にとって、短すぎる通勤は、家の役割から仕事の役割へ切り替える余白を持ちにくい可能性があります。一方、44分を超えて長くなると、移動が睡眠、家事、育児、余暇を圧迫し、心理的苦痛を増やす方向に働きます。
この結果は、通勤を「悪」か「必要善」かで二分する議論に修正を迫ります。通勤には、仕事と家庭の境界をつくる機能があります。しかし、その機能は無制限に伸ばせるものではありません。時間が長くなりすぎれば、境界づくりの便益より、疲労と時間喪失の損失が上回ります。
米国全体の通勤実態を見ると、この44分は平均よりかなり長い水準です。米国勢調査局の2024年ACSでは、在宅勤務者を除く平均片道通勤時間は27.2分でした。片道60分以上の通勤者は9.3%で、69.2%が単独で車を運転して通勤しています。米国の44分研究は、平均的な通勤者ではなく、やや長めの移動を抱える層の心理的境界を示していると見るべきです。
企業実務でこの数字を使うなら、「片道44分までなら問題ない」という免罪符にしてはいけません。研究が測ったのは心理的苦痛であり、疲労、睡眠、家計、交通費、育児時間、介護時間をすべて含む総合指標ではありません。さらに、同じ44分でも、自家用車で渋滞を運転する人、座って電車に乗る人、自転車で身体を動かす人では、心身への作用が異なります。
むしろ44分は、人事が面談や制度設計で確認すべき警戒線です。片道45分前後を超える社員については、出社頻度、始業時刻、会議の配置、在宅勤務の可否を一体で見る必要があります。とりわけ、家事・育児・介護を担う社員や、仕事の裁量が低い職種では、通勤時間がそのまま離職検討の材料になりやすいです。
通勤が境界をつくる第三の時間
通勤に一定の価値があるという考え方は、別の研究群とも整合します。ケンブリッジ大学のリポジトリで公開されているOrganization Science掲載研究は、通勤を家庭と仕事の役割を切り替える機会と位置づけました。3件のフィールド研究では、長い朝の通勤は仕事と家庭の葛藤が大きい人に不利に働く一方、出勤前にその日の仕事役割を整理する人は悪影響を受けにくいことが示されています。
Organizational Psychology Reviewの論文も、通勤を仕事でも家庭でもない「第三の時間」として捉えます。音楽、読書、語学学習、考え事、何もしない時間は、職務や家事の要求から一時的に離れる回復資源になり得ます。日本の民間調査でも、片道1時間以上の通勤者に通勤のメリットを聞くと、読書、勉強、一人の時間、音楽、睡眠が上位に並びました。
ただし、第三の時間として成立するには条件があります。座れること、乗り換えが少ないこと、遅延が少ないこと、通信や読書ができる程度の空間があることです。満員電車で身体を押され続ける時間や、渋滞で到着時刻が読めない運転時間は、同じ44分でも回復資源にはなりにくいです。
睡眠への影響も見逃せません。米ヒスパニック系成人760人を対象にした睡眠研究では、通勤時間が1時間増えるごとに、就業日の睡眠時間が15分短くなる関連が確認されました。オーストラリアの13波のコホート研究でも、週6時間を超える通勤はメンタルヘルス指標の小さな低下と関連し、仕事の裁量が低い人で悪影響が強まりました。通勤の価値は、本人がその時間を自分で使えるかどうかに大きく左右されます。
英国の縦断データを用いた主観的ウェルビーイング研究も、同じ方向を示します。通勤時間が片道10分増えるごとに、仕事満足度や余暇時間の満足度が下がり、ストレインが高まる関連が確認されました。一方で、徒歩通勤は余暇満足度やストレイン面で相対的に良い結果を示しています。通勤を評価する際は、分数だけでなく、能動的に使える時間か、身体を動かす時間か、ただ耐える時間かを分ける必要があります。
日本の通勤負担を左右する混雑と頻度
首都圏に偏る長時間通勤の現実
日本で44分という数字を読む際には、米国と同じ物差しをそのまま当てはめない注意が必要です。総務省の2021年社会生活基本調査では、平日に通勤・通学を行った人の1日の通勤・通学時間は全国で1時間19分でした。都道府県別では神奈川県が1時間40分で最長、千葉県と東京都が1時間35分、埼玉県が1時間34分と、関東地方の長さが目立ちます。
この総務省データは、米研究のような「片道」ではなく、1日の通勤・通学行動時間として読むべき数字です。それでも、首都圏で往復1時間半前後が珍しくないことは、人材戦略上の重い前提です。採用面接で「週5日出社、片道1時間」は会社側にとって普通でも、候補者にとっては年間数百時間の拘束として評価されます。
負担をさらに左右するのが混雑です。国土交通省の2024年度都市鉄道混雑率調査では、三大都市圏の平均混雑率は東京圏139%、大阪圏116%、名古屋圏126%でした。東京圏は前年度から3ポイント上昇し、通勤通学時間帯の混雑が戻りつつあります。時間が同じでも、座れる始発電車と、立ったまま身体が接触する電車では消耗の質がまったく違います。
首都圏勤務者を対象にしたザイマックス総研の分析でも、通勤時間が長いほど通勤ストレスが高い傾向が示されています。2023年調査では、在籍オフィスへの平均通勤時間が53.4分と、2019年の49.4分より長くなりました。コロナ禍で住む場所と働く場所の距離感が変わった結果、出社日数は減っても、1回あたりの移動が重くなった人がいます。
テレワーク定着後の通勤回数
通勤時間を考える際、いまは「何分か」だけでは不十分です。週に何回通うかが、負担の総量を決めます。ザイマックス総研によると、首都圏オフィスワーカーの週あたり通勤回数は、2019年の4.8回から2023年には4.1回に減りました。長時間通勤者ほど通勤回数を減らす傾向も確認されています。
全国の正社員ベースで見ると、パーソル総合研究所の2025年7月調査では、テレワーク実施率は22.5%でした。2024年同時期の22.6%とほぼ横ばいで、コロナ禍後も一定程度は定着しています。一方で、テレワーカーのうち週1日以下の利用者は49.4%に増え、頻度は減少傾向です。大企業では原則出社の指示が増えているとの結果もあります。
この状況は、企業に二つの課題を突きつけます。一つは、出社の価値を明確にすることです。会議のためだけに1時間かけて出社し、オンライン会議を席で受けるだけなら、通勤時間は仕事の質に転化されません。もう一つは、通勤負担を個人の我慢に押し込めないことです。育児、介護、副業、学習、健康管理の時間を削る出社設計は、長期的には定着率を下げます。
日本の幸福度研究も、通勤時間の長さに慎重な見方を求めています。ニッセイ基礎研究所が全国18〜64歳の被用者5,594人を対象にした調査では、片道通勤時間は10〜30分が約37%、30〜60分が約33%でした。健康状態や年収などを調整した推計では、通勤時間が長くなるほど幸福度が低くなる傾向が示されています。90分以上の長時間通勤者は、特に低い傾向がありました。
企業が見るべきなのは、平均通勤時間ではなく分布です。全社員平均が40分でも、育児中の社員、若手、管理職、地方転居者、夜間対応のある職種に負担が偏っていれば、組織リスクは見えません。採用と定着の観点では、通勤時間の中央値、60分超の割合、週あたり通勤回数、混雑路線の利用割合を合わせて把握する必要があります。
採用実務では、通勤条件は給与や職務内容と同じく、候補者が比較する要素です。求人票に「出社あり」とだけ書いても、候補者は住む場所、保育園の送迎、介護、学び直しの時間を頭の中で差し引きます。オフィス勤務を求めるなら、なぜ出社が必要か、週何日か、始業時刻に柔軟性があるか、遠方居住者にどんな選択肢があるかを明示することが、採用広報としても重要になります。
定着面では、長時間通勤を個人の住宅選択の結果だけに帰すと対策が遅れます。転居、結婚、出産、介護、配偶者の転勤、親の体調変化で通勤負担は急に変わります。人事が年1回の住所変更や通勤経路申請だけで把握していると、負担が高まった社員に気づけません。1on1やサーベイで「通勤が仕事継続の支障になっているか」を尋ねる設問を持つことが、早期離職の予防につながります。
出社回帰で見落とされる三つのリスク
第一のリスクは、通勤時間を労働時間の外側に置き続けることです。賃金が発生しない時間でも、本人の生活時間を確実に奪います。NBERの在宅勤務研究では、27カ国のデータから、在宅勤務日の通勤時間節約は平均72分でした。その節約時間の40%は仕事に、11%はケア活動に使われています。企業にとっても、通勤削減は単なる福利厚生ではなく、労働投入と生活維持を両立させる手段です。
第二のリスクは、短距離通勤者を軽く見ることです。通勤時間が短くても、毎日混雑路線に乗る人は、週2日の長距離通勤者より負担が重い場合があります。通勤ストレスは時間、混雑、頻度、遅延、乗り換え、着席可能性の掛け算です。平均値だけで「近いから大丈夫」と判断すると、現場の疲労を見落とします。
第三のリスクは、通勤制度を交通費精算だけで終わらせることです。国土交通省は、テレワークをワークライフバランス、離職防止、生産性向上、事業継続、通勤混雑緩和に資する働き方と位置づけています。これは、通勤そのものを減らす政策だけでなく、通勤の質を高める人事施策にも通じます。時差出勤、サテライトオフィス、チーム単位の出社曜日設計、始発駅利用者への配慮は、採用競争力の一部です。
加えて、通勤負担は賃金格差やキャリア格差にもつながります。長く通える人ほど都心の高賃金職にアクセスしやすく、短時間しか通えない人は職務選択が狭まる場合があります。企業が職務の一部をオンライン化したり、地域拠点やサテライト勤務を組み合わせたりすれば、遠方に住む優秀人材やケア責任を持つ社員を活かしやすくなります。通勤設計は、福利厚生ではなく人材ポートフォリオの設計課題です。
人事が今週見直す通勤指標
44分は、企業が社員に提示できる標準値ではありません。むしろ、通勤には切り替えの価値がある一方、一定時間を超えると睡眠、家庭、余暇、健康を削り始めるという警告です。日本では、首都圏の長時間通勤と鉄道混雑が重なり、同じ分数でも負担は米国研究より複雑です。
人事部門がまず確認すべき指標は、社員の片道通勤時間、週あたり出社回数、60分超の社員比率、混雑路線の利用、育児・介護中社員の通勤負担です。そのうえで、職種ごとに出社の目的を定義し、出社日を減らすだけでなく、出社した日の価値を高める必要があります。通勤時間の最適解は、分数の正解探しではなく、働く人が回復でき、組織も成果を出せる境界を設計することです。
参考資料:
- A Time to Unwind or Despair? Decoding the Impact of Commuting Duration on Psychological Distress
- United States Commuting At A Glance: American Community Survey 1-Year Estimates
- Commuting / Journey to Work | American Community Survey
- Commuting in the United States: 2022
- 令和3年社会生活基本調査 生活時間及び生活行動に関する結果
- テレワークの推進 | 国土交通省
- 都市鉄道の混雑率調査結果 令和6年度実績 | 国土交通省
- Time Savings When Working from Home | NBER
- Commuting and Sleep | Arizona State University
- Time Spent Commuting to Work and Mental Health | American Journal of Epidemiology
- How commuting affects subjective wellbeing | Transportation
- Finally, some “me time”: A new theoretical perspective on the benefits of commuting
- Between home and work: commuting as an opportunity for role transitions
- 第十回・テレワークに関する調査 | パーソル総合研究所
- コロナ禍で変化した「通勤」を読み解く | ザイマックス総研
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