伊藤忠BX職に見る事務職再定義と440万人余剰時代の人材戦略
事務職余剰時代に先手を打つ伊藤忠の狙い
伊藤忠商事が2025年4月に「事務職」を「ビジネスエキスパート職(BX職)」へ改称したことは、単なる名称変更ではありません。トレード、事業管理、計数管理を担う職務を、企業価値を支える専門職として見直す動きです。
この再定義が重みを持つのは、国内の雇用構造が量の不足から質のミスマッチへ移っているためです。経済産業省の2040年推計では、AIやロボットの活用、リスキリングが進んでも、事務職と文系人材には余剰が生じる可能性が示されました。
一方で、企業の現場では内部統制、データ活用、海外取引、投資先管理の複雑さが増しています。求められるのは、作業を正確に処理する人ではなく、商流と数字とリスクをつなぎ、組織運営を前に進める人材です。本稿では、伊藤忠のBX職を手掛かりに、事務職再定義が企業と個人に何を迫るのかを整理します。
経産省推計が映す事務職と文系人材の需給断層
事務職437万人余剰の前提
経済産業省が2026年3月に示した「2040年の就業構造推計(改訂版)」は、人口減少だけを見た悲観論とは少し違います。十分な国内投資や産業構造転換が実現する場合、就業者数は2022年の6706万人から2040年に6303万人へ減りますが、AIやロボットの利活用、労働の質の向上によって約200万人分相当の需要が効率化されるとしています。
問題は、総量ではなく配置です。職種別では、事務職の2040年需要が1039万人、供給が1476万人とされ、差し引き437万人の余剰が見込まれています。反対に、AI・ロボット等の利活用を担う人材は需要782万人に対し供給443万人で、339万人の不足です。現場人材も260万人不足する推計です。
この数字は、事務職が消えるという単純な予言ではありません。定型的な入力、確認、集計、連絡調整の一部が自動化される一方、業務の目的を理解し、例外処理やリスク判断を担う職務は残ります。つまり、職務の下位レイヤーは縮み、業務設計や統制、データ解釈を含む上位レイヤーへ移る圧力が強まるということです。
RIETIの研究も、AIやロボットによる影響は職種や産業の自動化リスクによって異なると整理しています。ICT資本の増加は労働時間を減らす方向に働く一方、自動化リスクが低い産業では負の影響が緩和されます。職務をどう設計し直すかが、雇用を守るか、余剰化を早めるかの分岐点になります。
東京圏に集中する文系余剰
学歴別の推計も重い論点です。経産省の資料では、大卒・院卒理系は124万人不足する一方、大卒・院卒文系は76万人の余剰です。内訳では、大卒文系が61万人、院卒文系が15万人の余剰とされています。これは「文系不要論」ではなく、文系人材が多く配置されてきた事務、企画、調整型の仕事が、AI時代に再編されるという警告です。
地域差も見逃せません。職種別の地域推計では、一都三県の関東は193万人の余剰で、その多くを事務職が占めます。学歴別では、一都三県に大卒・院卒文系等の余剰が110万人集中する一方、地方では専門職や現場人材の不足が目立ちます。東京のホワイトカラー市場ほど、競争条件の変化を早く受ける構図です。
リクルートワークス研究所は、2040年に向けた労働供給制約を社会課題として扱っています。JILPTの労働力需給推計も、労働参加や経済成長のシナリオによって2040年の労働力人口や就業者数が大きく変わることを示しています。働き手が足りないのに、特定職種では余る。この二重構造こそ、採用と育成の難しさです。
したがって、企業が取るべき対応は採用人数の削減だけではありません。どの職務を残し、どの職務を自動化し、どの人材を隣接領域へ動かすかを明示する必要があります。伊藤忠のBX職は、この職務再編を「事務の縮小」ではなく「専門性の再定義」として打ち出した点に特徴があります。
BX職へ改称した伊藤忠の職務再設計
組織運営の要という新定義
伊藤忠の採用サイトは、総合職を国内外の新規ビジネス展開や戦略立案を担う職掌、BX職をトレード、事業管理、計数管理などの事務業務を担う職掌と説明しています。重要なのは、BX職について「専門性を発揮し、組織運営の要となる役割」と位置づけている点です。
同社のBX職資料では、DX推進や内部管理の高度化によって事務業務を取り巻く環境が大きく変化しているとし、事務業務を成長を支える重要業務として再確認したと説明しています。従来の補助的な職掌ではなく、総合職のパートナーとして組織を動かす機能に引き上げる意図が読み取れます。
この発想は、AI時代の事務職再設計に合っています。経理処理や貿易書類の照合、契約管理の一部はシステム化されます。しかし、例外の多い商社取引では、取引先、物流、為替、与信、規制、投資先の実態が絡みます。ここで必要なのは、画面に表示された数字を処理する力だけでなく、その数字が事業上どんな意味を持つかを判断する力です。
総合商社の事務は、単純なバックオフィスではありません。トレードの採算、在庫、請求、回収、契約条件を理解し、営業や職能部門と連携して損失を防ぐ仕事です。AIが定型作業を担うほど、人間には商流全体を見た異常検知と意思決定支援が求められます。BX職という呼称は、その役割を社内外に見える形で言語化したものです。
キャリアパスと学び続ける制度
名称変更だけでは、職務の価値は上がりません。伊藤忠の資料で注目すべきは、BX職のキャリアパスを示している点です。基礎知識とスキルの習得から始まり、社内他部署へのローテーション、出向先や海外実習などを通じて、専門性と広い視野を獲得する構成です。
同社は、総合職とBX職を対象にした「チャレンジキャリア制度」も導入しています。従業員が社内募集案件を見て異動希望を出し、面接などを経て、ディビジョンカンパニーや総本社職能部の垣根を越えた異動を実現する仕組みです。人材育成ページでは、毎年20名程度の異動が実現していると説明しています。
さらに、組織横断案件に参加できる「バーチャルオフィス」もあります。2024年度は14案件に約70名が参加し、新規事業開発研修や外部専門家の伴走支援も組み合わせています。これは、事務職を固定的な配属に閉じ込めず、商流や事業開発の現場に接続する制度設計です。
リスキリングも評価制度と結びついています。ベネッセのUdemy Business導入事例によれば、伊藤忠は2024年度から全社員の個人業績目標に「学び続ける」を追加しました。100以上の研修メニューやオンライン学習を用意し、DX、リーダーシップ、財務分析、PMIなどを必要なタイミングで学べるようにしています。
ここで重要なのは、資格取得だけを目的にしない点です。AI時代の事務職に必要なのは、特定ツールの操作だけではありません。取引や事業投資の文脈を理解し、データを読み、関係者を動かし、リスクを説明する複合スキルです。BX職は、その複合スキルを職掌の中心に据える試みといえます。
処遇の面でも、同社は2024年度に若手・中堅社員を中心とした給与水準の引き上げと、個人業績を重視した評価・報酬制度の改訂を行いました。2025年度からは貢献度が高い社員の処遇にさらに差をつける方針も示しています。専門性を求めるなら、学習機会だけでなく、成果が報われる制度を同時に置く必要があります。
これは多くの企業にとって示唆的です。事務職に高度化を求めながら、評価は従来の勤続年数やミスの少なさに偏ったままでは、社員は挑戦よりも現状維持を選びます。職務再定義は、仕事の呼び名、育成メニュー、異動機会、報酬の四つがそろって初めて行動を変えます。
女性活躍と経営人材の裾野
伊藤忠のBX職再定義は、女性活躍推進とも結びついています。同社の働き方改革ページでは、BX職人事制度改訂を主体的なキャリア形成支援の一つとして位置づけています。事務職という名称が持つ補助的な響きを改め、専門性とキャリアの広がりを示すことは、職掌の評価を変えるうえで意味があります。
同社は2024年度と2025年度にそれぞれ5名の女性執行役員を内部登用し、執行役員を含めた全役員の女性比率を28%に高めたと公表しています。CAOインタビューでは、女性総合職の多くが20代から30代で、自然な登用を待つだけでは時間がかかるという問題意識も示されています。
この文脈で見ると、BX職の再定義は「女性に優しい制度」ではなく、経営人材の供給源を広げる取り組みです。事務実務に精通した人材が、事業管理、内部統制、データ活用、海外実習を経験すれば、将来の管理職や職能リーダーの候補になります。人材不足時代には、既存の職掌に眠る専門性を掘り起こすことが採用競争力になります。
ただし、職掌名を変えればキャリア差が消えるわけではありません。ESGデータを見ると、2025年の女性総合職比率は12.5%、女性管理職比率は9.0%です。役員登用の象徴的な変化と、管理職層の厚みづくりは同時に進める必要があります。BX職の成否は、現場で任される仕事の質と評価の透明性にかかっています。
企業が直面する職務再定義の三つの落とし穴
事務職再定義には、三つの落とし穴があります。第一は、名称だけが先行することです。職掌名を専門職らしく変えても、実際の仕事が従来通りの入力、照合、庶務中心なら、社員の成長実感は生まれません。役割、権限、評価、異動機会まで変えなければ、看板の付け替えで終わります。
第二は、リスキリングを自己責任に寄せすぎることです。IPAのディスカッションペーパーは、日本企業の85.1%でDXを推進する人材が不足していると紹介しています。多くの会社で人材が足りない以上、個人の学習意欲だけに頼るのは限界があります。事業戦略から必要スキルを定義し、実務で使う場を用意することが不可欠です。
第三は、余剰という言葉が不安だけを生むことです。経産省推計の「事務職437万人余剰」は、現在の職務構成を延長した場合の警告です。企業が職務を分解し、自動化される作業と人が担う判断を明確にすれば、事務職経験者は事業管理、データ品質管理、内部統制、業務改革、顧客対応高度化へ移れます。
一方で、個人にも厳しい現実があります。文系人材が多い東京圏では、曖昧な調整力だけでは差別化しにくくなります。業界知識、会計、法務、データ、生成AI活用、プロジェクト推進のいずれかを持ち、担当業務の成果に結びつける必要があります。余剰時代に問われるのは、学歴ではなく職務で説明できる専門性です。
個人と人事が今から整える実践策
伊藤忠のBX職再定義から学べるのは、事務職の将来を悲観することではありません。作業を減らし、判断と設計に近い仕事へ移すために、職務名、キャリアパス、社内異動、学習、評価を一体で変えることです。これは大企業だけでなく、中堅企業の管理部門にも当てはまります。
人事部門は、まず事務職の業務を棚卸しし、定型処理、例外対応、判断支援、統制、改善提案に分けるべきです。そのうえで、AIやRPAで減らす作業と、人が専門性を高める仕事を切り分けます。採用では「事務経験者」ではなく、どの商流、どの数字、どのリスクを扱える人材かを見ます。
個人は、担当業務の周辺にある事業構造を学ぶことが出発点です。請求書を処理するなら回収リスクを、受発注を担うなら在庫と物流を、管理資料を作るなら意思決定に使われる指標を理解することです。AIに代替されにくい事務職とは、作業が速い人ではなく、業務の意味を説明し、改善につなげられる人です。
2040年の余剰は、今から決まっている未来ではありません。企業が職務を設計し直し、個人が専門性を言語化できれば、事務職は縮小する仕事ではなく、経営を支える仕事へ変えられます。伊藤忠のBX職は、その転換を早くから制度に落とし込もうとする一つの先行例です。
参考資料:
- 第30回 産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会
- 2040年の就業構造推計(改訂版)について
- 募集要項|ITOCHU RECRUITING
- ビジネスエキスパート職(BX職)とは
- 人材育成|伊藤忠商事株式会社
- 人材戦略|伊藤忠商事株式会社 統合レポート2025
- CAOインタビュー|伊藤忠商事株式会社 統合レポート2025
- ダイバーシティ|伊藤忠商事株式会社
- ESGデータ|伊藤忠商事株式会社
- 人事制度の改訂について|伊藤忠商事株式会社
- 主体的なキャリア形成のために学び続ける仕組みを構築|Udemy Business
- AIおよびロボット技術の進展と日本の雇用・賃金|RIETI
- 2023年度版 労働力需給の推計|JILPT
- DX動向2025-AI時代のデジタル人材育成|IPA
- 未来予測2040 労働供給制約社会がやってくる|リクルートワークス研究所
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