王子HD退職金改革、一時金廃止が問う企業人材獲得競争の新常識
退職一時金廃止が人材戦略になる理由
王子ホールディングスが退職一時金を廃止する動きは、単なる福利厚生の縮小として見ると本質を見誤ります。長期勤続の見返りを退職時にまとめて支払う制度を、採用力、配置、学習、資産形成にどう振り向けるかという人材戦略の問題だからです。
退職金は日本企業の雇用慣行を支えてきた制度です。ただし、働き手が転職を前提にキャリアを考え、企業が専門人材や現場人材を外部市場から獲得する時代には、将来の一時金よりも、現在の処遇、成長機会、持ち運べる老後資産のほうが比較されやすくなります。問われているのは「退職金は無用か」ではなく、退職金が経営戦略に従っているかです。
長期勤続報酬から市場報酬への再設計
見えにくい後払い賃金の弱点
退職一時金は、長く勤めるほど受給額が大きくなる後払い型の報酬です。企業にとっては定着を促す装置であり、従業員にとっては老後資金や転機の備えになります。特に高度成長期から平成初期までの大企業では、終身雇用、年功賃金、企業内育成と相性がよい制度でした。
しかし、後払い報酬には採用市場で見えにくいという弱点があります。中途採用の候補者が比較するのは、多くの場合、基本給、賞与、職務内容、勤務地、リモートワーク、学習機会など、入社前に理解しやすい条件です。退職時の一時金は将来価値であり、制度の計算式も複雑になりがちです。候補者が十分に理解しなければ、企業が実際には相応の人件費を負担していても、採用力には反映されません。
王子HDの文脈では、この「見えにくさ」が重要です。同社は長期ビジョン2035と中期経営計画2027を掲げ、既存事業の収益力強化と新領域への展開を進めています。公開資料では、海外売上高比率が40%を超えるグローバル企業として、事業構造の変化に対応する人材確保を重視していることが確認できます。退職一時金の原資を、より現役世代に見える処遇へ組み替える発想は、この事業転換と整合します。
中途採用で効く現在価値の提示
王子グループの統合報告書は、人材戦略を「確保」「育成」「活用」「活躍」の4領域で整理しています。研究開発、新規事業、海外事業に携わる専門人材のキャリア採用を強化し、重点分野の2024年度採用実績は2年前に比べて3倍以上に増えたと説明しています。これは、内部育成だけでは事業転換の速度に追いつきにくいことを示しています。
中途採用では、候補者が前職で積み上げた給与水準、転職先で任される役割、入社後の成長可能性を横並びで比べます。退職一時金は、勤続年数が短い人ほど効きにくく、転職を繰り返す人材には割安に見えます。そこで、退職時に偏った報酬を現在の月例給、賞与、企業型確定拠出年金、学習支援、職務に応じた処遇へ移すことができれば、採用時の説明力は高まります。
一方で、制度変更は人件費の総額を下げるためだけに見えてしまうと失敗します。退職一時金を廃止するなら、従業員が「将来受け取るはずだった価値はどこへ移ったのか」を確認できる設計が必要です。月例給に反映するのか、DC掛金を厚くするのか、賞与や職務手当に振り向けるのか。ここが曖昧なままでは、採用力の強化ではなく、単なる給付削減と受け止められます。
王子HDの人的資本投資との接続
王子HDの公開情報を見ると、退職金改革と接続しやすい人事施策はすでに複数あります。役割等級制度では、実質的な年次ではなく、役割期待と成果を処遇に反映する考え方を掲げています。公募制度は2022年度から国内グループ会社の正規従業員などを対象に導入され、2024年度は10人、累計では46人が異動したとされています。
また、国内主要グループ会社では65歳定年制を導入し、一定条件のもとで最長67歳までの再雇用制度も整えています。確定拠出年金についても、主要な会社で65歳まで加入可能な制度を導入し、従業員が任意で掛金を上乗せできる仕組みを持つと説明しています。退職一時金を廃止するなら、こうした制度を単独で並べるのではなく、キャリア自律と老後資産形成を支える一体の報酬体系として示す必要があります。
製造現場の採用難も見逃せません。統合報告書は、国内では50代の比率が高く、製造現場で担い手不足が深刻化しうると指摘しています。高卒採用の充足率は2024年入社の38%から2025年入社では72%へ改善したとされますが、採用市場が売り手優位であることに変わりはありません。若年層にとっても、遠い将来の一時金より、入社直後からの賃金水準、技能形成、勤務地、職場環境のほうが判断材料になりやすいです。
退職給付制度を揺さぶる雇用流動化
厚労省統計に残る一時金依存
厚生労働省の令和5年就労条件総合調査によると、退職給付(一時金・年金)制度がある企業割合は74.9%です。企業規模別では1,000人以上が90.1%、300から999人が88.8%、100から299人が84.7%、30から99人が70.1%で、大企業ほど制度を持つ割合が高くなっています。
制度がある企業の内訳を見ると、退職一時金制度のみが69.0%、退職年金制度のみが9.6%、両制度併用が21.4%です。退職一時金制度がある企業は、両制度併用を含めると90.4%に達します。製造業でも退職給付制度がある企業は85.6%で、制度がある企業のうち退職一時金制度のみは64.4%です。日本企業、とりわけ製造業では、一時金がなお標準的な制度であることがわかります。
この数字は、王子HDの改革が一般的な慣行から外れることを意味します。だからこそ注目されます。退職一時金を残す企業が多い中で廃止に踏み切るなら、制度変更の理由を「古いからやめる」ではなく、「どの人材戦略に資源を移すのか」として説明しなければなりません。
なお、就労条件総合調査は毎年同じ項目を扱うわけではありません。令和6年調査は資産形成など、令和7(2025)年調査は労働時間制度と賃金制度などが結果項目になっており、退職給付の詳細項目は令和5年調査が直近の参照値として使いやすい資料です。制度比較では、最新年の表紙だけでなく、該当項目の有無を確認する必要があります。
確定拠出年金が担うポータビリティ
退職一時金を廃止した企業が代替手段として重視しやすいのが、企業型確定拠出年金(企業型DC)です。厚労省は、確定拠出年金を「拠出された掛金と運用益の合計額をもとに将来の給付額が決まる制度」と説明しています。企業型DCでは事業主が掛金を拠出し、規約によっては加入者本人も上乗せできます。
DCの大きな特徴はポータビリティです。厚労省の制度概要では、離転職した場合、積み立てた資産を他制度へ持ち運べる場合があると示されています。企業型DCから企業型DC、iDeCo、通算企業年金などへ移換できるルートが整理されており、転職を前提にした働き方と相性があります。
退職一時金は、会社ごとの制度にひも付きます。転職すれば、前職での勤続年数は多くの場合リセットされます。これに対し、DCは個人別管理資産として見えやすく、転職時にも資産移換の選択肢があります。働き手にとっては、会社への忠誠ではなく、自分の職業人生に沿って老後資産を積み立てられる点が重要です。
ただし、DCは万能ではありません。運用商品を本人が選ぶため、金融知識の差が将来の給付に影響します。厚労省も、確定拠出年金では個々の加入者が適切な資産運用を行う情報や知識を持つことが重要だとしています。退職一時金をDCへ置き換えるなら、投資教育、手数料の見える化、デフォルト商品の説明、ライフプラン研修が不可欠です。
税制優遇が残す一時金の強さ
退職一時金には、税制上の強みもあります。国税庁のタックスアンサーによると、退職所得は原則として「収入金額から退職所得控除額を差し引き、その2分の1を退職所得とする」仕組みです。退職所得控除額は、勤続20年以下なら40万円に勤続年数を掛けた額、20年超なら800万円に70万円と20年を超える年数を掛けた額を足して計算します。
この制度は、長く勤めた人ほど退職一時金を税制面で受け取りやすくします。たとえば勤続30年なら、退職所得控除額は1,500万円です。退職一時金を廃止して月例給に移すと、所得税や社会保険料の扱いが変わり、従業員によって手取りの感じ方が異なります。単に同額を移せばよいわけではありません。
一方で、企業型DCにも税制上のメリットがあります。厚労省の制度概要では、事業主が拠出した掛金は全額損金算入、加入者が拠出した掛金は小規模企業共済等掛金控除の対象、運用益は運用中非課税、一時金で受け取る場合は退職所得控除の対象とされています。退職一時金からDCへ資源を移す場合、税制面の説明を丁寧に行えば、働き手にとっても納得しやすい設計になります。
ここで重要なのは、制度の名前ではなく受け取り方です。退職時に一時金で受け取るのか、年金として受け取るのか、現役時代の給与で受け取るのかによって、課税、社会保険、資産形成のリスクが変わります。会社は総人件費の組み替えだけでなく、従業員のライフイベントにどのような影響が出るかまで説明する責任があります。
制度廃止で生じる3つの実務リスク
既存社員の納得感と経過措置
第一のリスクは、既存社員の納得感です。退職一時金は、すでに働いた期間に対する期待権として受け止められています。制度変更日以降の積み立てを止める場合でも、過去分をどう扱うのか、移行時点の年齢や勤続年数で不利益が偏らないか、経過措置が重要になります。
特に50代の社員は、退職一時金を前提に住宅ローン、教育費、老後資金を設計している可能性があります。王子グループの統合報告書でも国内の年代構成では50代比率が高いとされています。ここを軽視すると、制度改革がエンゲージメント低下や早期退職につながります。
退職所得控除を失う可能性
第二のリスクは、税・社会保険の影響です。退職所得控除が使える一時金を、給与や賞与に移すと、従業員の手取り、社会保険料、所得税率に違いが出ます。企業側が「原資は移した」と説明しても、従業員が実際の手取りで損をしたと感じれば、制度の信頼は失われます。
この点では、モデルケースの提示が欠かせません。20代、30代、40代、50代、定年前後、転職入社者、製造現場、研究開発職など、働き方と年齢層ごとに影響を示す必要があります。制度を理解してもらうには、平均値ではなく、自分に近いケースで見える化することが有効です。
投資教育なしのDC移行不全
第三のリスクは、DC移行が自己責任の丸投げになることです。退職一時金は会社が給付額を設計し、従業員は運用判断をしません。DCでは、積み立てた資産の運用結果が将来の給付に反映されます。これは自律的な資産形成を促す一方で、運用経験が乏しい人ほど不安を抱きやすい仕組みです。
会社がすべきことは、投資教育を研修の一部に閉じ込めないことです。新入社員、中途入社者、育児・介護期、管理職、定年前など、キャリア段階ごとに必要な情報は違います。資産配分、リスク許容度、受け取り方、iDeCoとの関係、退職所得控除との関係を継続的に学べる環境が必要です。
退職金改革は、制度を変えた日ではなく、従業員が理解し、納得し、行動できる状態になった時点で初めて機能します。王子HDのようにグループ会社が多く、職種も地域も幅広い企業では、制度説明の粒度を現場ごとに合わせることが成否を分けます。
働き手が確認すべき報酬の全体像
退職一時金の廃止は、退職金そのものの終わりではなく、報酬の見せ方と使い方の転換です。企業は、長期勤続を前提にした後払い報酬を、現在の採用競争、役割に応じた処遇、持ち運べる資産形成へどう組み替えるかを問われています。王子HDの改革が注目されるのは、製造業の大企業でも、その再設計を避けられなくなったことを示すからです。
働き手は、退職金の有無だけで会社を判断するのではなく、月例給、賞与、企業型DCの掛金、マッチング拠出、職務に応じた昇給、学習支援、転職時の資産移換、税制上の扱いを合わせて確認する必要があります。退職金が「ある会社」が安心とは限らず、「ない会社」が不利とも限りません。重要なのは、会社が報酬の現在価値と将来価値を誠実に説明しているかです。
退職金無用論の答えは、制度をなくすことではありません。経営戦略と働き手のキャリアに従って、退職金の機能を再配置することです。採用難が続くなか、企業の人事部門は、給与表だけでなく、老後資産形成まで含めた報酬ストーリーを語れるかが試されます。
参考資料:
- 人財マネジメント | 王子ホールディングス
- 王子グループ統合報告書2025 経営基盤の強化
- 統合報告書 | 王子ホールディングス
- 経営理念・経営戦略 | 王子ホールディングス
- 採用情報 | 王子ホールディングス
- 令和5年就労条件総合調査 結果の概況 | 厚生労働省
- 令和5年就労条件総合調査 退職給付制度 | 厚生労働省
- 令和5年就労条件総合調査 退職給付の支給実態 | 厚生労働省
- 令和6年就労条件総合調査 結果の概況 | 厚生労働省
- 令和7(2025)年就労条件総合調査 結果の概況 | 厚生労働省
- No.1420 退職金を受け取ったとき | 国税庁
- 確定拠出年金制度 | 厚生労働省
- 確定拠出年金制度の概要 | 厚生労働省
- 2025年の制度改正 | 厚生労働省
- 令和5年雇用動向調査結果の概要 | 厚生労働省
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