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王子HDの退職一時金全廃で加速する報酬戦略と資産形成競争の再編

by 渡辺 由紀
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はじめに

王子ホールディングスの退職一時金見直しは、単なる福利厚生の改定ではありません。長く日本企業を支えてきた「後でまとめて払う報酬」を、「今見える報酬」と「自分で育てる資産」に組み替える動きとして読むべきテーマです。とりわけ、技術人材や中途採用の争奪戦が強まる局面では、年収総額よりも、入社直後に見える手取り感や資産形成支援の分かりやすさが採用力を左右しやすくなります。本稿では、王子グループの公式公開情報、公的統計、年金制度の制度資料をもとに、今回の見直しが人材獲得競争にどのような意味を持つのかを整理します。

退職一時金全廃の意味

王子グループの報酬設計の輪郭

王子グループの採用ページで確認できる2026年4月入社ベースの初任給は、事務職と研究職の学部卒で27万2000円、修士了で28万8900円です。プラントエンジニア職は学部卒28万円、修士了29万6900円と、理系職種をやや厚めに処遇しています。研究職の博士了は30万1700円です。ここから見えるのは、同社が職種別の需給差を意識しながら、入り口の賃金水準を明確に打ち出していることです。

同じ採用ページでは、福利厚生として財形貯蓄、株式保有会、住宅融資、独身寮・社宅が並びます。採用広報の段階で資産形成メニューを並べる企業は珍しくありませんが、王子グループはこれを「働く環境」の一部として見せています。つまり、給与と福利厚生を別物としてではなく、生活設計を支える総合パッケージとして打ち出しているわけです。

王子ホールディングスの人財マネジメントページでは、主要会社で65歳まで加入可能な確定拠出年金を導入し、従業員が任意で掛金を上乗せできると説明しています。持株会にも会社の奨励金が付きます。住宅財形には、一定年齢まで積立額の10%相当の奨励金を支給する仕組みもあります。資産形成支援が単発ではなく、複数制度で束ねられている点は重要です。

さらに、王子グループ確定給付企業年金のサイトでは、現在の退職金制度が勤続ポイントと役割等級ポイントの積み上げで決まり、その支給原資の50%が企業年金の原資になると示されています。ここから分かるのは、王子グループの退職給付が、もともと一時金だけで完結する制度ではなく、年金部分と組み合わされた設計だったということです。今回の見直しは、ゼロから年金制度を作る話ではなく、既存の退職給付の見せ方と配分を変える延長線上にあります。

後払い賃金から見える賃金への転換

退職一時金は、長く勤めた人に厚く報いる仕組みであると同時に、会社にとどまるほど有利になる「後払い賃金」として機能してきました。若手の時点では月例給与を抑え、その代わりに勤続の末尾でまとまった金額を受け取る設計です。日本型雇用における終身雇用や年功的処遇と相性がよかったのは、このためです。

しかし、採用市場の競争条件が変わると、後払いの魅力は弱まります。転職が前提の人にとっては、数十年後の退職金より、入社直後からの基本給や可処分所得の方が比較しやすいからです。企業が採用面接で競うのは、「うちに長くいれば得です」という約束よりも、「入社初日からどれだけ生活を支えられるか」という説明になりやすくなります。

王子グループの採用ページ自体も、この変化を裏書きしています。応募資格には第二新卒を含み、海外を含めた全国転勤ありの総合職として採用する一方、プラントエンジニア向けには月額5万円または10万円の奨学生制度も用意しています。必要な人材が限られ、採用の難度が高い職種ほど、報酬の前倒しや周辺支援の厚みが採用力に直結している構図です。

制度変更の詳細な規約文は公開範囲の制約があるため、本稿では一般論として扱いますが、退職給付の原資を月給や企業型DCに振り向ける発想そのものは、既に「選択制DC」として広く制度化されています。前払い退職金を現金で受け取るか、DC口座に積み立てるかを選ぶ設計です。今回の王子HDの見直しは、まさにその発想が大企業の採用戦略の中核に近づいてきた例として読むことができます。

人材獲得で変わる報酬の物差し

若年層の賃金志向の上昇

学生の企業選択の軸は、ここ数年で明確に変わっています。マイナビの2026年卒大学生就職意識調査では、「安定している会社」が51.9%で最多でしたが、「給料が良い会社」も25.2%まで上昇し、4年連続で増えました。物価高と初任給引き上げの広がりが、学生の比較基準を押し上げていることがうかがえます。

この数字が示すのは、若手が高給のみを求めているという単純な話ではありません。安定性を重視しながらも、入り口の賃金を無視しなくなったということです。長く働く前提の会社ほど、「安心」と「最初の給与」の両立が問われます。退職金で将来を厚くする代わりに、初任給は標準的でよいという説明が通りにくくなっているわけです。

王子グループがエンジニア職と事務・研究職で初任給に差をつけ、さらに奨学生制度まで用意しているのは、まさにその市場圧力への対応でしょう。製造業の人材獲得競争では、工学系人材が半導体、エネルギー、素材、インフラの各業界で奪い合いになっています。採用広報の段階で「将来の退職給付」を説明しても、足元の比較では勝ちにくい場面が増えています。

パーソル総合研究所の2025年調査でも、この変化は別の角度から確認できます。2023年以降に勤務先で退職金の月給化が「あった」と答えた正社員は27.7%でした。賞与の月給化は32.8%で、いずれも約3割です。制度見直しは一部の特殊な企業だけの動きではなく、賃上げの一手法として広がり始めています。

総報酬としての資産形成支援

重要なのは、月給化が単なる前倒し支給で終わるのか、資産形成支援とセットで設計されるのかという違いです。厚生労働省によると、企業型DCは事業主が掛金を拠出し、加入者が運用商品を選ぶ仕組みです。規約で定めれば加入者拠出も可能で、離転職時の資産移換もできます。つまり、流動化した雇用市場と相性がよい制度です。

王子ホールディングスの人財マネジメントページで、確定拠出年金、持株会、住宅財形を同列に示しているのは象徴的です。賃金だけでは人を引きつけにくい一方で、老後資金だけを強調しても若手には届きにくい。そこで、給与の見えやすさと、将来の資産形成を支える制度を束ねて示す必要があるわけです。企業にとっては福利厚生ではなく、採用メッセージそのものになっています。

企業年金全体の市場規模を見ても、この領域の重みは大きいままです。JA共済などが公表した2025年3月末時点の受託概況では、確定給付企業年金の加入者数は887万人、企業型DCは862万人でした。すでにDCはDBに迫る規模まで広がっており、日本の会社員にとって例外的な制度ではありません。大企業が採用競争の中でDCを前面に出しても、不自然ではない段階に来ています。

一方で、古典的な財形制度も消えたわけではありません。厚生労働省によれば、令和6年度末の財形貯蓄の契約件数は563万件、残高は13兆5439億円です。減少傾向にはあるものの、依然として大きな残高があります。これは、従業員の資産形成ニーズが「投資だけ」に移ったのではなく、安定的な積立と投資型の制度を組み合わせたい需要が続いていることを示しています。

制度設計で分かれる得失

給与上乗せとDC拠出の差異

退職給付を月給化する場合、個人にとって最も大きい論点は「同じ原資でも税と受取時期が違う」ことです。国税庁は、退職金には退職所得控除や分離課税など、税負担を軽くする配慮があると説明しています。長年の勤務に対する一時金として扱われるため、通常の給与所得とは税制上の扱いが異なります。

これに対して、同じ原資を給与として毎月受け取れば、その時点で給与所得となり、社会保険料や税の対象になります。手元資金を早く持てる利点はありますが、税制上の優遇は後退しやすくなります。月給が上がるほど、見かけの年収増と可処分所得の増加幅が一致しないことも起こります。

企業型DCに回す場合は別の性格になります。厚生労働省の整理では、企業型DCは拠出時が非課税で、運用益も非課税、給付時は一時金なら退職所得控除、年金なら公的年金等控除の対象です。税制面では有利ですが、原則60歳まで引き出せません。いま必要なお金ではなく、将来の資産として囲い込まれる点が、給与との決定的な違いです。

ここで効いてくるのが選択制DCの考え方です。ろうきん連合会やSBI証券の制度解説では、前払い退職金や給与等を原資に、現金で受け取るかDCに積み立てるかを従業員が選ぶ設計が紹介されています。会社にとっては総人件費を大きく変えずに制度を再設計しやすく、従業員にとってはライフステージに応じて流動性と税制メリットを調整しやすい仕組みです。

説明責任と投資教育の重み

ただし、制度が複雑になるほど、説明責任は重くなります。厚生労働省は、企業型DCを実施する事業主に対して投資教育を求めています。これは形式的な研修の話ではありません。給与で受け取る場合、DCに回す場合、一時金として将来受け取る場合で、税、社会保険、流動性、資産形成リスクがどう変わるかを、従業員が理解できなければ制度は機能しないからです。

国税庁の質疑応答でも、企業内退職金制度を廃止して個人型の確定拠出年金への全員加入を契機とした打切支給を行う場合、原則として給与所得になると整理されています。制度の名前が似ていても、税務上の扱いは自動的に優遇されるわけではありません。人事制度の変更を「資産形成支援」として打ち出すなら、どの部分が給与で、どの部分が退職給付で、どの部分が年金なのかを明確に切り分ける必要があります。

従業員側にも、新しい負担が生まれます。退職一時金中心の制度では、老後資金の設計を会社側がある程度代行していました。DC比率が高まると、商品選択、リスク許容度、受取方法の判断が個人に戻ってきます。資産形成支援が競争軸になるとは、裏を返せば、企業が従業員の金融リテラシー支援まで含めて競うという意味です。

したがって、制度変更の成否を分けるのは金額だけではありません。どの職群にどの原資が乗るのか、モデルケースで手取りがどう変わるのか、住宅取得期と子育て期では何を選ぶべきか、転職時に資産をどう持ち運べるのか。こうした説明まで含めて初めて、資産形成制度は採用力と定着力につながります。ここを省くと、単なる「退職金削減」と受け止められやすくなります。

注意点・展望

今回の王子HDの見直しで注意したいのは、外から見える制度の大枠と、実際の個人影響の間に距離があることです。公式に確認できるのは、初任給水準、既存のDB・DCの存在、財形や持株会などの資産形成支援です。一方で、新規入社者向けの詳細な選択肢、どの程度が給与化されるのか、DCに回せる上限がどうなるのかまでは、公開情報だけでは読み切れません。入社コースや職種ごとに差が出る可能性もあります。

それでも方向感は明確です。採用市場では、初任給の見えやすさ、給与上昇の納得感、将来の資産形成支援の三点を一緒に設計する企業が増えています。パーソル総合研究所の調査が示したように、退職金や賞与の月給化はすでに約3割の正社員が経験する動きです。今後は製造業の大企業だけでなく、中堅企業でも、人材確保のために報酬の前倒しと企業型DCの組み合わせを検討する流れが強まるでしょう。

ただし、月給化だけでは競争優位になりません。若手は賃金を重視しますが、同時に安定性も見ています。企業が本当に問われるのは、「将来の約束を減らした分、何を新しく示せるか」です。可視化された賃金、選びやすい年金制度、転職しても持ち運べる資産、家計の節目に使える支援策までを一体で設計できる会社ほど、人材市場で強くなります。

まとめ

王子HDの退職一時金見直しは、日本型雇用の象徴だった後払い賃金を、採用市場に通用する見える報酬へ組み替える試みとして読むべきです。公式資料から確認できるのは、同社がすでに初任給、確定拠出年金、財形、持株会を束ねた総報酬設計へ踏み込んでいることです。これからの人材獲得競争では、単に月給を上げるだけでなく、従業員が将来の資産形成まで具体的に描ける制度を示せるかどうかが、新たな競争軸になります。

参考資料:

渡辺 由紀

雇用・人材戦略・キャリア

雇用・人材戦略・キャリアを専門に取材。高専人材の争奪戦から中途採用市場の変化まで、「働く」を取り巻く構造変化を解き明かす。

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