実質賃金マイナスが映す日本企業の賃上げ力低下と統治改革の課題
物価高で露呈した実質賃金停滞の構図
日本の賃金問題は、単に「給料が上がらない」という家計の実感だけでは捉えきれません。2022年以降の物価上昇は、企業が長く抱えてきた賃金決定の弱さを一気に表面化させました。名目賃金は上がっても、食品、エネルギー、サービス価格の上昇に追いつかなければ、働く人の購買力は戻りません。
厚生労働省の毎月勤労統計では、2026年8月速報の現金給与総額は前年同月比3.8%増でした。一方、持家の帰属家賃を除く総合指数で実質化した実質賃金は1.5%増となり、ようやく物価を上回る月が出てきました。ただし、これは長い停滞からの反転局面であり、家計が「豊かになった」と感じるにはまだ距離があります。
重要なのは、物価高だけを犯人にしないことです。日本では企業収益が改善しても、人件費に厚く配分する仕組みが弱く、労働市場の流動性も限定的でした。春闘、最低賃金、価格転嫁、企業統治をつなげて見なければ、なぜ賃金上昇が生活実感に届きにくいのかは見えてきません。
春闘高回答でも家計に届きにくい理由
名目賃金と実質賃金の時間差
2024年以降の春闘では、久しく見られなかった高い賃上げ率が続きました。連合の2026年春季生活闘争最終集計では、平均賃金方式の定昇込み賃上げは16,400円、5.01%でした。300人未満の中小組合でも12,866円、4.69%となり、3年連続で5%台に近い高水準が維持されています。
それでも家計の実感が鈍いのは、賃上げ率の中身を分けて見る必要があるためです。定期昇給は年齢や勤続に伴う賃金カーブの移動であり、全員の賃金水準を底上げするベースアップとは性格が異なります。連合の2026年集計では、賃上げ分が明確な組合の賃上げ分は3.50%でした。物価上昇が続く局面では、この差が購買力の回復速度を左右します。
また、春闘の数字は主に労働組合のある企業の交渉結果です。厚生労働省の労働経済分析によると、2024年の労働組合推定組織率は16.1%でした。パートタイム労働者の組合員数は過去最高の146万人まで増えましたが、推定組織率は8.8%にとどまります。つまり、春闘の成果が全労働者へ自動的に広がるわけではありません。
物価の上昇幅が賃上げを先に削る構造
賃金が上がっているのに生活が楽にならない最大の理由は、物価上昇の粘着性です。総務省の消費者物価指数では、2025年平均の総合指数は前年比3.2%上昇、生鮮食品を除く総合指数も3.1%上昇しました。OECDも、日本では高インフレが名目賃金の伸びを実質賃金に転換することを妨げ、2021年1〜3月期から2025年1〜3月期まで実質賃金が累計で2%低下したと整理しています。
2026年に入ると、統計上は反転の兆しが見えます。厚生労働省の2026年8月速報では、現金給与総額の実質賃金は前年比プラスとなりました。しかし、同じ資料で所定内給与やパートタイム労働者の時間当たり給与を見ると、家計を支える基礎的な賃金の伸びが継続するかが焦点です。一時金や特別給与に依存した改善では、消費の土台は強くなりません。
賃上げが生活に届くには、物価を一時的に上回るだけでは足りません。基本給、時給、初任給、企業内最低賃金が継続して上がり、同時に価格転嫁と生産性向上で企業の原資が確保される必要があります。日本の課題は、賃上げの「単発イベント」から「毎年の経営標準」へ移れるかにあります。
企業統治が賃金を抑える三つの回路
利益剰余金と人件費の優先順位
日本企業は賃金を抑える余力がなかったわけではありません。衆議院の政府答弁書では、法人企業統計上の利益剰余金、いわゆる内部留保は金融・保険業を除いて2024年度に約637.5兆円となり、前年度から約36.5兆円増えたと示されています。もちろん、利益剰余金はすべて現金ではなく、設備や子会社株式などの形で企業内に蓄積されています。それでも、利益の蓄積と賃金の伸びの差は無視できません。
JILPTの主要労働統計指標を見ると、2025年度の売上高経常利益率は7.3%、売上高人件費比率は13.7%でした。企業収益が改善する一方で、人件費比率が大きく上がっているとはいえません。賃金が増えにくい背景には、利益配分の優先順位として、投資、借入返済、株主還元、内部留保が先に置かれ、人材への分配が後回しになる企業行動があります。
この問題は、単なる道徳論ではありません。人的資本を軽視する企業は、採用競争力を失い、技能継承や現場改善の力も落とします。賃金をコストとしてだけ扱う経営は、短期利益を守っているように見えて、長期の収益力を損なう可能性があります。取締役会は、賃金を費用項目ではなく、競争力を支える資本配分として議論する段階に入っています。
価格転嫁と人材投資の取締役会責任
賃上げを妨げる二つ目の回路は、価格転嫁の弱さです。大企業が原材料費や物流費の転嫁を進めても、下請けや中小企業が労務費まで十分に価格へ反映できなければ、賃上げ原資は細ります。特にサービス業や地域の生活関連産業では、人手不足が深刻でも、値上げに踏み切ると顧客離れを招くという不安が残ります。
ここで問われるのは、サプライチェーン全体の企業統治です。大企業が自社の人的資本投資だけを開示しても、取引先に過度なコスト吸収を求めれば、経済全体の賃上げ循環は壊れます。調達方針、価格交渉、支払条件を取締役会が監督し、労務費を含む適正取引を経営指標に組み込む必要があります。
最低賃金も同じです。厚生労働省によると、2025年度の地域別最低賃金の全国加重平均は1,121円となり、前年度から66円上がりました。引き上げ額は目安制度開始以降で最高額です。最低賃金は低賃金層の底上げに効きますが、価格転嫁や省力化投資が伴わなければ、中小企業の収益を圧迫します。賃上げ政策は、企業に支払い能力を作る政策と一体でなければ持続しません。
労働市場の弱さと社内序列の固定化
三つ目の回路は、労働市場そのものの弱さです。転職すれば賃金が上がる市場であれば、企業は人材流出を防ぐために賃上げを迫られます。しかし日本では、職務内容よりも年功や社内資格で賃金を決める慣行が長く残り、外部労働市場で技能を評価する仕組みが弱いままでした。
この構造は、非正規雇用や女性の賃金にも影響します。OECDは日本の男女賃金格差がOECD平均より大きく、2023年時点で日本が下位に位置すると指摘しています。賃金が上がらない問題は、平均賃金だけでなく、誰に賃上げが届いていないのかという分配の問題でもあります。
社内序列が固定化すると、若手や中途採用者、専門人材への賃金配分が遅れます。結果として、成長分野へ人が移りにくくなり、企業の新陳代謝も鈍ります。賃金停滞は労働者だけの問題ではなく、企業が事業ポートフォリオを更新できない問題でもあります。
賃上げ定着を阻む中小企業と物価の壁
生産性格差が賃金格差を固定する構造
賃金を継続的に上げるには、生産性が必要です。日本生産性本部の「労働生産性の国際比較2025」では、2024年の日本の時間当たり労働生産性は60.1ドル、5,720円で、OECD加盟38カ国中28位でした。就業者一人当たりでも29位で、主要先進7カ国では最も低い状況が続いています。
OECDの日本経済審査も、中小企業の生産性の低さを重視しています。中小企業は雇用の70%、付加価値の56%を占め、非農業中小企業の従業員の71%はサービス業に集中しています。規制、デジタル化の遅れ、企業年齢の高さ、国際取引への参加の少なさが、全体の生産性を押し下げる要因です。
この構造では、大企業の春闘が高くても、日本全体の賃金は上がりにくくなります。生産性の低い企業が淘汰されればよいという単純な話でもありません。地域の雇用、生活インフラ、取引網を支える企業が多いため、円滑な事業承継、M&A、省力化投資、デジタル化支援を通じて、賃上げできる企業へ変える政策が必要です。
政府目標が問う賃上げノルムの実効性
政府は2029年度までの5年間で、日本経済全体で年1%程度の実質賃金上昇を定着させる方針を掲げています。最低賃金についても、2020年代に全国平均1,500円という高い目標の達成に向けた努力を維持すると説明されています。方向性は明確ですが、目標を掲げるだけでは賃上げは定着しません。
必要なのは、企業の賃金決定を変える制度的な圧力です。人的資本開示を形式的な作文で終わらせず、賃金水準、男女賃金格差、教育訓練投資、離職率、管理職登用を経営戦略と結びつけることが求められます。投資家も、短期の利益率だけでなく、賃金を抑えすぎた企業が将来の成長力を失っていないかを評価する必要があります。
同時に、物価上昇が再加速すれば、せっかくの賃上げは再び実質ベースで削られます。2026年8月時点では実質賃金にプラスの兆しが出ていますが、エネルギー、食料、円安、地政学リスクはなお残ります。賃上げ定着の最大のリスクは、企業の支払い能力と家計の購買力が同時に傷むことです。
読者が確認すべき賃金循環の指標
賃金が本当に上がり始めたかを判断するには、春闘の headline だけでなく、三つの数字を追う必要があります。第一に、所定内給与と基本給の伸びです。賞与で一時的に上がる賃金ではなく、毎月の所得が増えているかを見ます。
第二に、中小企業と非正規労働者への波及です。連合の集計では有期・短時間・契約等労働者の時給引き上げも進んでいますが、未組織労働者まで広がるかが焦点です。第三に、企業の利益配分です。経常利益率、労働分配率、利益剰余金、設備投資、人件費の関係を見れば、企業が賃金を成長投資として扱っているかが分かります。
日本の賃金停滞は、物価高で突然起きた現象ではありません。企業統治、労働市場、価格転嫁、生産性の弱さが重なってきた結果です。実質賃金のプラス転換を一過性で終わらせないためには、賃上げを経営者の善意ではなく、企業価値を高める当然の資本配分として定着させることが必要です。
参考資料:
- 毎月勤労統計調査 2026年8月分結果速報
- 令和7年版 労働経済の分析 第1部第3章
- 令和8年版 労働経済の分析 第1部
- OECD Employment Outlook 2025: Japan
- OECD Economic Surveys: Japan 2026
- 連合 2026春季生活闘争 第7回最終回答集計
- 厚生労働省 令和7年度最低賃金額答申
- 総務省 消費者物価指数 全国2025年平均
- JILPT 2026年8月 最近の統計調査結果から
- JILPT 企業経営、分配率
- 財務省 法人企業統計調査 調査の結果
- 衆議院 質問に対する答弁書 内部留保関連
- 内閣府 城内内閣府特命担当大臣記者会見要旨
- 日本生産性本部 労働生産性の国際比較
- 日本生産性本部 労働生産性の国際比較2025プレスリリース
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