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「知っている」のに「使えない」英語の正体とは

by 渡辺 由紀
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はじめに

「Getting a letter is happy」――この英作文を見て、どこがおかしいか即座に説明できるでしょうか。認知科学者の今井むつみ氏(慶應義塾大学名誉教授)は、高校生が書いたこの一文に衝撃を受けたといいます。「happy」という中学1年生で習う基本的な単語でありながら、その使い方を根本的に間違えているのです。

この誤りの本質は、英語では「happy」は人の感情を表す形容詞であり、「手紙を受け取ること」を主語にして「happy」とは言えないという点にあります。正しくは「I am happy to get a letter」や「Getting a letter makes me happy」と表現しなければなりません。難解な英単語を数多く暗記しているにもかかわらず、最も基本的な単語すら正しく使えない。この現象は、日本の英語教育が抱える構造的な問題を象徴しています。

本記事では、認知科学の知見をもとに、なぜ日本人は英語を「知っている」のに「使えない」のか、その原因と克服のヒントを探ります。

「知っている」と「使える」の間にある深い溝

受容語彙と産出語彙という二つの語彙力

語彙力には大きく分けて二つの種類があります。一つは「受容語彙(Passive Vocabulary)」で、読んだり聞いたりしたときに意味がわかる語彙です。もう一つは「産出語彙(Active Vocabulary)」で、自分が話したり書いたりする際に実際に使える語彙です。

日本の英語教育では、大学受験までに5,000〜7,000語程度の語彙を習得することが求められます。しかし、その大部分は受容語彙にとどまっており、産出語彙として使いこなせる単語は極めて限られているのが実情です。「Getting a letter is happy」という誤りは、「happy」の日本語訳(幸せな、うれしい)は知っていても、英語における「happy」の使い方のルール――人を主語にとる形容詞であるという性質――を体得していないことを示しています。

日本人の英語力が示す「理解はできるが使えない」構造

2025年版のEF英語能力指数(EF EPI)によると、日本は世界123カ国・地域中96位という結果でした。特に注目すべきは、スキル別の分析で「読む・聞く」に比べて「話す・書く」のスコアが著しく低いという点です。これはまさに、受容能力と産出能力の乖離を数値で裏付けるものといえます。

理解はできるが使いこなせないという課題は、個人の努力不足ではなく、教育システムと学習方法に起因する構造的な問題です。

認知科学が解き明かす「スキーマ」の壁

母語のスキーマが外国語学習を妨げるメカニズム

今井むつみ氏は、著書『英語独習法』(岩波新書、2020年)の中で「スキーマ」という概念を用いてこの問題を説明しています。スキーマとは、ある事柄についての枠組みとなる知識であり、人が無意識のうちに経験から一般化してつくり上げる「暗黙の知識の塊」です。

外国語を学ぶとき、大人はすでに母語のスキーマを持っており、それを無意識に外国語に適用してしまいます。日本語では「手紙をもらうのはうれしい」という文が自然に成立しますが、英語ではこの構造をそのまま移し替えることはできません。日本語のスキーマで英語を組み立てようとするからこそ、「Getting a letter is happy」のような不自然な文が生まれるのです。

日本語と英語のスキーマの決定的な違い

日本語と英語の間には、スキーマレベルで多くの根本的な違いがあります。

まず、名詞の可算・不可算の区別です。英語では名詞を覚える際に「数えられるか否か」が重要な情報ですが、日本語にはこの区別がほとんどありません。そのため、日本語話者は英語の名詞を学ぶとき、この区別に自動的に注意を向けることが難しくなります。

次に、動詞の動作と状態の区別があります。日本語の「着る」は、「コートを着なさい」(動作)にも「かわいいコートを着ているね」(状態)にも使えます。しかし英語では前者は「put on」、後者は「wear」と、明確に異なる動詞を使い分けなければなりません。

さらに、形容詞の主語制約も大きな違いです。英語の「happy」「sad」「excited」といった感情を表す形容詞は人を主語にとりますが、日本語の「うれしい」「悲しい」は主語が明示されないことも多く、物事を主語にした表現も自然に成り立ちます。こうした違いが、乳児期から日本語に親しんできた学習者にとって大きな壁となるのです。

日本の英語教育が抱える構造的課題

「訳す」教育から抜け出せない現場

文部科学省は2020年度から新学習指導要領を全面実施し、小学校3年生からの外国語活動の導入や、5・6年生での英語教科化を進めてきました。コミュニケーション能力の育成を掲げた改革でしたが、現場では依然として課題が残っています。

中学・高校の授業では、英文を日本語に正確に訳して理解するという文法訳読法が根強く残っています。この方法では、英語を日本語のスキーマを通して理解する習慣が強化されるばかりで、英語固有のスキーマを体得する機会が失われてしまいます。

単語テストの落とし穴

学校での英単語学習は、多くの場合「英語→日本語訳」の一対一対応を暗記する形式です。しかし、これは受容語彙を増やす学習であり、産出語彙を育てる学習ではありません。

「happy=幸せな、うれしい」と覚えるだけでは、「happy」がどのような文脈でどのように使われるか、どのような主語と共起するか、類義語の「glad」「pleased」「delighted」とどう違うかといった、実際に使うために必要な情報が欠落しています。今井氏はこれを、言葉を「点」として学ぶことで「死んだ知識」になると表現しています。

認知科学が示す効果的な学習アプローチ

言葉を「面」として学ぶ

今井氏が提唱するのは、言葉の意味を「面」として学ぶアプローチです。一つの単語について、その類義語との違い、よく共起する語(コロケーション)、使われる文脈、文法的な制約などを、ネットワークとして理解することが重要です。

具体的な方法として、今井氏はオンラインコーパス(大規模な言語データベース)を活用した「熟見法」を推奨しています。英語のコーパスを使って、ある単語が実際にどのような文の中で使われているかを多数観察することで、その単語に関するスキーマを自分の中に構築していくのです。

日本語と英語の違いを「探究」する姿勢

効果的な学習のもう一つの鍵は、日本語と英語のスキーマの違いを自分で発見し、探究するという能動的な姿勢です。単に教わった知識を暗記するのではなく、「なぜこの表現は英語では不自然なのか」「日本語とどう違うのか」を自ら考えることで、深い理解につながります。

「Getting a letter is happy」の誤りも、「なぜこれが間違いなのか」を掘り下げることで、英語の形容詞の性質に対する理解が一気に深まるはずです。

注意点・今後の展望

よくある誤解を避ける

認知科学の知見は、「多読・多聴をすれば自然に身につく」という考えにも疑問を投げかけています。今井氏によれば、大量のインプットだけでは語彙の深い理解には不十分であり、意識的に言語の構造に注目する学習が不可欠です。

また、「日本語を介さず英語で考えよ」という指導も、初中級者にとっては現実的ではありません。むしろ、日本語と英語の違いを明確に意識した上で、英語のスキーマを段階的に構築していくことが合理的なアプローチとされています。

AI時代における英語教育の再定義

翻訳AIの発達により、「英語を学ぶ意味はあるのか」という議論もあります。しかし、言語のスキーマを理解することは、単なるコミュニケーション手段の獲得にとどまらず、異なる思考の枠組みを体得することでもあります。今井氏と秋田喜美氏の共著『言語の本質』(中公新書、2023年)が新書大賞2024の第1位を獲得したことは、言語と認知の関係に対する社会的関心の高まりを示しています。

今後の英語教育には、認知科学の知見をより積極的に取り入れ、「知っている」から「使える」への橋渡しを意識したカリキュラム設計が求められるでしょう。

まとめ

「Getting a letter is happy」というたった一つの誤文が映し出すのは、日本の英語教育が長年抱えてきた「知識の量」と「運用能力」のギャップです。認知科学の研究は、この問題の根本が母語のスキーマに無意識に縛られた学習にあることを明らかにしています。

単語を「点」ではなく「面」として学ぶこと、日本語と英語のスキーマの違いを能動的に探究すること。これらの視点は、英語学習者一人ひとりが今日から実践できるアプローチです。英語力の向上は、単語帳をもう一冊こなすことではなく、言葉に対する意識の持ち方を変えるところから始まるのかもしれません。

参考資料:

渡辺 由紀

雇用・人材戦略・キャリア

雇用・人材戦略・キャリアを専門に取材。高専人材の争奪戦から中途採用市場の変化まで、「働く」を取り巻く構造変化を解き明かす。

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