不正会計が繰り返される構造的理由と倫理規範の重要性
67社の不適切会計とダーウィンの罠
企業の不正会計は、日本においても世界においても後を絶ちません。東京商工リサーチの調査によれば、2024年度に「不適切な会計・経理」を開示した上場企業は67社にのぼり、4年連続で増加しています。なぜ法整備やガバナンス改革が進んでも、不正は繰り返されるのでしょうか。
スウェーデンの起業家・哲学者であるクリスティアン・ロン氏は、著書『ダーウィンの罠 私たちはなぜ重要な選択を間違い続けるのか?』(日経BP、2026年2月刊)において、この問いに進化心理学の視点から切り込んでいます。自己の利益を追求する行動が、なぜ組織や社会全体の危機につながるのか。本記事では、同書の提起する問題意識をもとに、不正会計が絶えない構造的な背景と、「見えざる手」が機能するために必要な倫理規範の役割を考察します。
「ダーウィンの悪魔」が駆動する短期利益の追求
進化が生んだ自己利益への衝動
クリスティアン・ロン氏は、短期的な利益を優先させる人間の衝動を「ダーウィンの悪魔(Darwinian Demons)」と名付けています。これは自然選択の副産物として人間に深く根付いた衝動であり、目先の成果を手に入れることで生存を有利にしてきた進化的メカニズムに由来します。
この衝動は、本人が悪意を持っているかどうかとは無関係に作動します。競争環境に置かれた個人や組織は、短期的な成果を出すことが「合理的」な選択となり、長期的な影響を考慮する余裕を失います。ロン氏は、テクノロジーの発展によってこの衝動がもたらす損害の規模が拡大しやすくなっていると警鐘を鳴らしています。
「囚人のジレンマ」としての企業不正
ゲーム理論における「囚人のジレンマ」や「共有地の悲劇」は、この構造をよく説明します。各企業が個別に合理的な判断をした結果、業界全体や社会が損害を被るという構図です。ある企業が利益を水増しすれば短期的に株価は上昇し、経営陣は評価されます。一方で正直に業績を報告した企業は、相対的に見劣りしてしまいます。
この競争環境では、不正を行うことが個別の主体にとって「合理的」になりうるという構造的な問題が生まれます。ロン氏はこうした罠を「ダーウィンの罠」と呼び、個人の道徳的な善悪だけでは解決できない、システムレベルの課題であると指摘しています。
日本における不正会計の構造的背景
ガバナンスの「形式」と「実質」の乖離
日本では2015年のコーポレートガバナンス・コード導入以降、形式的なガバナンス体制は整備が進みました。しかし、日本公認会計士協会が2025年に公表した「上場会社等における会計不正の動向」によれば、会計不正を公表した上場企業は依然として高水準にあります。
2025年の不適切会計の内訳をみると、経理や会計処理ミスなどの「誤り」が29件で最多、次いで役職員による着服横領が13件、売上の過大計上などの「粉飾」が7件となっています。特に注目すべきは、費用の繰延べや架空仕入・原価操作といった手法が増加している点です。
権力集中と牽制機能の形骸化
構造的な問題の典型例として、トップへの権限集中が挙げられます。経営トップの意向を優先する企業風土では、事業計画がトップの期待に沿わない進捗報告は許容されず、経理部門も一体となって目標達成を目指す構造が形成されます。その結果、本来あるべき内部牽制が十分に機能しなくなります。
金融庁は2025年10月から「コーポレートガバナンス・コードの改訂に関する有識者会議」を開催し、実質的なガバナンス強化に向けた議論を進めています。経団連も2025年12月に「持続的な成長に向けたコーポレートガバナンスのあり方」を公表し、形式から実質への転換を訴えています。しかし、制度をいくら整えても、それを支える倫理規範がなければ実効性は担保されません。
「見えざる手」が機能するための前提条件
アダム・スミスの真意と現代の誤解
「神の見えざる手」という概念は、しばしば「各個人が自己利益を追求すれば、市場は自然にうまく機能する」という意味で使われます。しかし、アダム・スミスの思想を丁寧に読み解くと、これは大きな誤解であることがわかります。
スミスが『国富論』(1776年)に先立って著した『道徳感情論』(1759年)では、市場が機能するための前提として「正義」や「共感」の重要性が論じられています。スミスにとって、自由な市場は信頼や倫理、法制度が整って初めて成立するものでした。ルール無用の弱肉強食を推奨したのではなく、道徳的な基盤の上に経済活動が営まれるべきだと考えていたのです。
規範なき市場の帰結
ロン氏の主張は、このスミスの思想と通底しています。規範やルールが欠如した競争環境では、自己利益の追求が全体の利益を損なう「ダーウィンの罠」に陥るというのが、同書の核心的なメッセージです。
1902年のフランス領インドシナ(現ベトナム)のハノイでは、ネズミ駆除のために尾を持参した者に報酬を与える制度が導入されました。しかし人々は報酬目当てにネズミの尾だけを切り取って本体は放してしまい、結果的にネズミはむしろ増加したとされています。これは、インセンティブ設計において倫理的な規範や全体最適の視点が欠落すると、逆効果を招く典型的な事例です。
制度改革を超えた協力と透明性の設計
制度改革だけでは不十分
ガバナンス・コードの改訂や監査法人の体制強化は重要ですが、それだけでは不正の根本的な解決にはなりません。ロン氏が提唱するように、競争のルールそのものを見直し、短期的な成果を過度に評価するシステムを変革する必要があります。
同氏が率いるNormativeは、企業のカーボンアカウンティング(炭素会計)を自動化するテック企業です。オックスフォード大学の「人類の未来研究所」での研究経験を持つロン氏は、気候変動から会計不正まで、様々な社会課題の根底に同じ構造的メカニズムが働いていると指摘しています。
協力と透明性への転換
ロン氏は、人類の最大の強みは「協力」「分析」「理性」であるとし、これらを活かした新しい仕組みの構築が必要だと説いています。個々の悪意を非難するのではなく、協力が合理的な選択となるような制度設計を進めることが重要です。日本においても、不正を「個人の問題」として処理するのではなく、不正が構造的に生まれにくい環境を整備するという視点が求められています。
見えざる手を支える倫理規範と競争ルール
不正会計が繰り返される背景には、短期利益を追求する進化的衝動と、それを助長する競争環境という構造的な要因があります。アダム・スミスの「見えざる手」は、倫理規範や信頼といった土台があって初めて機能するものであり、規範なき自由競争は社会全体を蝕む結果を招きます。
クリスティアン・ロン氏の『ダーウィンの罠』が示すように、この問題の解決には個人の道徳に頼るだけでは限界があります。競争のルールを再設計し、透明性と協力を促進する仕組みを社会に組み込むことが、持続的な企業経営と健全な市場の実現への道筋となるでしょう。
参考資料:
- ダーウィンの罠 私たちはなぜ重要な選択を間違い続けるのか? - Amazon.co.jp
- The Darwinian Trap by Kristian Rönn - Penguin Random House
- 2025年上場企業の「不適切会計」開示43社・49件 - 東京商工リサーチ
- 2024年度の「不適切会計」開示は67社・67件 - 東京商工リサーチ
- 経団連:持続的な成長に向けたコーポレートガバナンスのあり方
- 上場会社等における会計不正の動向(2025年版) - 日本公認会計士協会
- 【本要約】ダーウィンの罠 私たちはなぜ重要な選択を間違い続けるのか? - note
- Darwinian Traps and Existential Risks - LessWrong
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