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取締役の賠償上限導入へ―会社法改正の全容と影響

by 鈴木 麻衣子
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はじめに

日本政府が会社法の改正に本格的に乗り出しています。焦点の一つは、取締役が業務上の判断で負う損害賠償責任に上限を設けるという制度改革です。現行法では、株主代表訴訟で認容される賠償額に実質的な上限がなく、東京電力の旧経営陣に対する訴訟では一審で約13兆3,210億円という前例のない賠償命令が出されました。こうした巨額賠償のリスクが、経営者の積極的な投資判断やリスクテイクを阻害しているとの指摘が経済界から相次いでいます。

法務省の法制審議会「会社法制(株式・株主総会等関係)部会」では、2026年3月に中間試案が取りまとめられ、責任限定契約制度の見直しを含む包括的な改正が議論されています。本記事では、改正の背景にある制度的課題から、具体的な改正の方向性、海外との比較、企業実務への影響までを多角的に読み解きます。

取締役責任の現行制度と課題

現行法における責任の枠組み

会社法上、取締役は会社に対して善管注意義務(会社法330条・民法644条)と忠実義務(会社法355条)を負っています。これらの義務に違反した場合、取締役は会社に生じた損害を賠償する責任を負います(会社法423条1項)。株主は、会社に代わって取締役の責任を追及する株主代表訴訟を提起することが可能です。

現行制度には、取締役の責任を軽減する仕組みも用意されています。株主総会の特別決議による一部免除、取締役会決議による一部免除(定款の定めが必要)、そして責任限定契約の3つの方法です。しかし、責任限定契約を締結できるのは、現行法では非業務執行取締役に限られており、代表取締役や業務執行取締役といった経営の中核を担う役員は、この制度の対象外となっています。

巨額賠償が経営を萎縮させる構図

株主代表訴訟における賠償額の巨額化は、日本の企業経営に大きな影を落としてきました。1990年代の大和銀行ニューヨーク支店事件では、当時としては前例のない規模の賠償命令が出され、経済界に衝撃を与えました。さらに、オリンパスの不正会計事件に関する株主代表訴訟では、旧経営陣に対して総額約594億円の賠償が命じられています。

そして、東京電力福島第一原子力発電所事故をめぐる株主代表訴訟では、2022年7月の東京地裁判決で旧経営陣4名に対し約13兆3,210億円の賠償が命じられました。この金額は日本の司法史上最高額とされています。ただし、2025年6月の東京高裁判決では、津波の予見可能性が否定され、一審判決が取り消されるという展開もありました。

こうした巨額賠償のリスクは、取締役の経営判断に対する過度な萎縮を招くとの懸念が根強くあります。特にM&Aや大規模な設備投資、新規事業への参入といった、リスクを伴うが企業成長に不可欠な意思決定において、「失敗すれば個人資産を超える賠償責任を負う」という恐怖が、経営者の挑戦を阻んでいるとの指摘がなされています。

法制審議会における改正議論の全体像

経産省研究会の提言が起点に

今回の会社法改正の動きは、経済産業省が設置した「『稼ぐ力』の強化に向けたコーポレートガバナンス研究会」(座長:神田秀樹・東京大学名誉教授)の報告書が大きな起点となっています。同研究会は2024年9月に発足し、2025年1月に「会社法の改正に関する報告書」を取りまとめました。

報告書では、日本企業が大胆な経営改革を行うための障壁を解消する措置として、業務執行取締役・執行役に対しても責任限定契約の締結を可能にすることが提言されています。現行法では非業務執行取締役のみが対象であるこの制度を拡大することで、経営者が適切なリスクテイクを行える環境を整備するという方向性が示されました。

2025年2月10日には法務大臣から法制審議会に対して諮問が行われ、新設の「会社法制(株式・株主総会等関係)部会」で本格的な審議が始まりました。同部会は2025年4月の第1回会議以降、集中的に審議を重ねています。

中間試案の概要と責任限定契約の見直し

2026年3月18日、法制審議会の部会は「会社法制(株式・株主総会等関係)の見直しに関する中間試案」を取りまとめました。中間試案の主要な検討項目は、大きく3つの柱で構成されています。

第一の柱は「株式の発行の在り方に関する規律の見直し」です。従業員等に対する株式の無償交付や、株式交付制度の見直し、現物出資規制の見直しなどが含まれます。第二の柱は「株主総会の在り方に関する規律の見直し」で、バーチャルオンリー株主総会の恒久化や、実質株主の確認制度の導入が検討されています。

そして第三の柱が「企業統治の在り方に関する規律の見直し」であり、ここに責任限定契約制度の見直しが含まれています。具体的には、現行法で非業務執行取締役に限定されている責任限定契約の対象を、業務執行取締役や執行役にも拡大する方向で議論が進められています。

この中間試案に対するパブリックコメントの募集が2026年4月2日から開始され、締切は2026年5月22日に設定されています。その後、早ければ2027年初めにも要綱案が取りまとめられ、2027年の通常国会への改正法案提出が目指されています。

海外における取締役責任の制度設計

デラウェア州モデルとの比較

取締役の賠償責任をめぐる制度設計は、各国の会社法制で大きく異なります。特に多くの米国企業が設立準拠法とするデラウェア州の一般会社法は、日本の改正議論にも示唆を与える先進的な制度を有しています。

デラウェア州では、1986年から取締役(ディレクター)の善管注意義務違反に基づく賠償責任を定款の規定により免除・限定することが認められてきました。いわゆる「エクスキュルペーション条項(exculpation clause)」と呼ばれるこの制度により、ほぼすべてのデラウェア州法人が定款で取締役の責任免除条項を採用しているとされています。

さらに2022年8月には、デラウェア州一般会社法が改正され、取締役だけでなく上級執行役員(オフィサー)に対しても、定款に基づく責任の限定・免除が可能となりました。ただし、オフィサーの場合は直接訴訟(ダイレクトアクション)に限られ、代表訴訟(デリバティブアクション)には適用されないという制限が付されています。

日本の改正が目指す位置づけ

米国では取締役の責任免除に加え、会社による補償制度(インデムニフィケーション)やD&O保険が三位一体で機能し、経営者のリスクテイクを支える環境が整備されています。日本でも2019年の会社法改正でD&O保険に関する規定が整備され、上場企業の約93%がD&O保険に加入しているとされていますが、責任限定の制度面では依然として課題が残されています。

今回の改正議論は、責任限定契約の対象拡大を通じて、日本の制度を国際的な水準に近づける試みといえます。ただし、デラウェア州のように定款による包括的な責任免除まで踏み込むのか、あるいは契約ベースの限定にとどめるのかは、今後の審議で詰められることになります。

企業実務と株主保護のバランス

経営判断原則の役割と限界

取締役の責任を考える上で欠かせないのが、日本の裁判実務で定着している「経営判断の原則(ビジネス・ジャッジメント・ルール)」です。この原則は、取締役の経営判断について、判断の前提となった事実認識に不注意な誤りがなく、判断の内容に著しく不合理なものがない限り、善管注意義務違反を認めないとする考え方です。

実務上、経営判断の誤りを理由とする株主代表訴訟で取締役の責任が認められるケースは限定的です。しかし、この原則が適用されるのはあくまで事後的な司法判断の場面であり、経営者が意思決定の時点で「万が一敗訴した場合の巨額賠償」を恐れて判断を躊躇する心理的効果までは解消できません。

責任限定制度の拡充は、こうした事前の萎縮効果を緩和するための制度的手当てとして位置づけられています。あらかじめ賠償額の上限が明示されることで、取締役が経営判断のリスクとリターンをより合理的に評価できるようになるという期待があります。

株主保護との両立をどう図るか

一方で、取締役の責任を安易に軽減すれば、コーポレートガバナンスの弱体化につながるという懸念も根強くあります。株主代表訴訟は、経営者の違法行為や著しい注意義務違反を抑止する重要な機能を果たしており、賠償額の上限設定はその抑止力を損なう可能性があります。

この点に関し、現行の責任限定契約制度では、善意かつ重大な過失がない場合に限って賠償額の上限が適用されるという要件が設けられています。改正後の制度においても、故意や重過失による義務違反、利益相反取引などについては責任限定の対象外とされる方向で議論が進むとみられます。

また、経団連は会社法改正に向けた論点として、取締役の責任限定と同時に、株主総会の在り方やガバナンス体制の強化も一体的に検討すべきとの立場を示しています。責任を限定する代わりに、監督機能の実効性を高めるという両輪のアプローチが求められています。

注意点・展望

改正までのスケジュールと注意点

法制審議会の中間試案に対するパブリックコメントの締切は2026年5月22日です。その後、部会での審議を経て2026年度中に要綱案が取りまとめられ、2027年の通常国会への法案提出が目標とされています。ただし、責任限定の範囲や要件については各方面の利害が交錯するため、審議が長期化する可能性もあります。

企業実務の観点からは、改正法の成立後に定款変更や責任限定契約の締結手続きが必要となる場合があります。特に、業務執行取締役との責任限定契約の導入を検討する企業は、定款変更を株主総会の特別決議で行う必要があるため、早めの準備が求められます。

残された論点

責任限定の「上限額」をどの水準に設定するかは、今後の審議における最大の焦点の一つです。現行制度では、代表取締役の場合は年間報酬の6年分、業務執行取締役は4年分が最低責任限度額とされていますが、この基準を踏襲するのか、新たな算定方法を導入するのかが問われます。

また、D&O保険との関係も重要な論点です。責任限定契約とD&O保険は補完的な関係にありますが、両者の適用範囲や相互作用について整理が必要となります。改正法の施行後は、企業ごとの状況に応じた最適な組み合わせを検討することが重要です。

まとめ

取締役の損害賠償額に上限を設ける会社法改正は、経営者の萎縮を防ぎ、企業の「稼ぐ力」を強化するための制度改革として推進されています。法制審議会の中間試案では、責任限定契約の対象を業務執行取締役にも拡大する方向が示され、2027年の法案提出に向けた議論が進行中です。

改正にあたっては、経営者のリスクテイク促進と株主保護のバランスが最大の課題となります。パブリックコメントの結果や部会での審議を注視しつつ、自社のガバナンス体制における影響を見極めていくことが、企業の法務・経営企画部門に求められる対応です。

参考資料:

鈴木 麻衣子

企業経営・コーポレートガバナンス

企業経営・コーポレートガバナンスを専門に取材。経営戦略の成功事例から不正会計の構造的問題まで、企業の「あり方」を鋭く問う。

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