日立が定年後も賃金維持へ ジョブ型が問う再雇用の常識
はじめに
「仕事は変わらないのに、給料だけが下がる」。60歳の定年を迎えた再雇用社員から繰り返し聞かれてきた言葉です。パーソル総合研究所が2025年に実施した調査によると、60歳定年制をとる企業の約8割が定年時に処遇を見直し、年収は平均で28%減少するとされています。
こうした「再雇用=賃金ダウン」の常識を覆す動きが、日本を代表する製造業から出てきました。日立製作所が2026年度から導入した新たな再雇用制度では、定年後も同じ職務を担う場合、月給・賞与を含む報酬水準が維持されます。背景にあるのは、同社が10年以上かけて構築してきた「ジョブ型人財マネジメント」の論理的帰結です。
本記事では、日立の新制度の具体的な中身と、それが示すジョブ型雇用の本質、そして日本企業のシニア処遇改革の行方を解説します。
日立の新制度が覆す「再雇用=減額」の構図
職務が同じなら報酬も同じという原則
日立製作所の新たな再雇用制度の核心は明快です。定年後も現役時代と同じ職務を継続する場合、報酬は維持されるという原則を打ち出しました。従来の制度では、再雇用者の報酬は個別に設定され、現役時代よりも低くなるケースが一般的でした。新制度ではこの不透明さを排し、公平性と透明性を確保することが狙いとされています。
具体的な報酬水準として、部長クラスであれば理論年収で1450万〜2000万円、課長クラスでは約1150万〜1500万円の水準が維持可能とされています。これらの金額は賞与や諸手当を除いた理論年収ベースですが、従来の再雇用制度と比較すれば画期的な水準といえます。
日立の定年は60歳で、希望者全員が64歳まで再雇用されます。さらに2024年度からは継続雇用の上限年齢を段階的に延長し、条件が合えば70歳まで就労が可能な制度も設けています。定年後に再雇用を希望する社員は約8割に上るとされており、新制度の対象は相当数にのぼる見込みです。
今後10年で8700人が定年を迎える現実
日立がこの制度改革に踏み切った背景には、切迫した人材確保の課題があります。同社では今後10年間で約8700人が定年を迎える見込みです。原子力発電や旧式システムの保守運用など、長年の経験と専門知識が不可欠な領域では、ベテラン人材の流出は事業継続に直結するリスクとなります。
単なる「雇用延長」ではなく、報酬面でもモチベーションを維持し、シニア世代が持つスキルや知識を次世代に継承していくための制度設計が求められていたのです。新制度は人件費負担の増加という側面がある一方で、採用市場の逼迫や技術伝承の必要性を考慮すれば、経営合理性のある判断だといえます。
10年超のジョブ型改革が到達した論理的帰結
2011年から始まったグローバル人事改革
日立の新制度は突然生まれたものではありません。その土台には、2011年度から着手してきたグループ・グローバル共通の人財マネジメント基盤があります。
日立がこの大改革に踏み切ったきっかけは、2008年度に製造業として当時過去最大の7873億円の最終赤字を計上したことでした。経営危機を経て、各社・各国ごとに個別最適だった人事制度を根本から見直す必要性に迫られたのです。
2012年度には約25万人規模のグローバル人財データベースを統一。2013年度には世界共通の等級基準である「日立グローバル・グレード(HGG)」を導入し、全世界のマネージャー以上5万ポジションを統一基準で格付けしました。2014年度からは「グローバル・パフォーマンス・マネジメント(GPM)」の仕組みを11万人以上に展開し、管理職の処遇を職務に応じたグレードに基づく制度へと変更しています。
役職定年の廃止とジョブ型の全社展開
この過程で、日立は役職定年制を廃止しました。HGGによってポジションの等級が明確に定義されるため、上位ポストから下位ポストへの異動があれば報酬も連動して変わります。年齢だけを理由に一律で役職を外す必要がなくなったのです。
2022年7月には、ジョブ型の制度が非管理職を含む全社員に導入されました。全450種類のポジションについて個別のジョブディスクリプション(職務記述書)が作成・公開され、職務の内容や責任範囲に応じて報酬が決まる仕組みが整備されています。
こうした経緯を踏まえれば、定年後再雇用者にも同じジョブ型の論理を適用するのは自然な流れです。「同じ職務なら同じ報酬」という原則が年齢の壁を越えて一貫するところに、日立が掲げるジョブ型の本質が表れています。
他の大企業に広がるシニア処遇改革の波
三菱電機の「マスターキャリア制度」
日立の動きに呼応するように、他の大企業もシニア人材の処遇改革を加速させています。三菱電機は2026年度から「マスターキャリア制度」を新設しました。従来の再雇用制度を刷新し、等級・評価・報酬制度について定年退職前と同様の仕組みを導入するものです。
注目すべきは処遇水準で、従来制度と比べて最大125%に引き上げられ、経営・事業への貢献が大きい再雇用者については、定年退職前と同等以上の処遇も可能とされています。さらに、従来の1年ごとの契約更新を廃止し、再雇用者本人が61〜65歳の中から再雇用終了時期を選択できるようにしました。職務マッチングが成立すれば、65歳以降の継続雇用も可能です。
富士電機・広島銀行にも波及
電機メーカーでは富士電機も2025年4月から、60歳以降の一般社員の処遇を見直しています。60歳時点の賃金に対する比率を従来の60%から75%に引き上げました。65歳定年制への移行とあわせた制度変更です。
金融業界でも動きが出ています。広島銀行は2026年4月から、60歳以上の再雇用者の賃金を平均24%引き上げることを発表しました。業種を問わず、シニア人材の処遇改善が広がりつつあるといえます。
改革を後押しする法制度と労働市場
こうした動きの背景には、法制度の変化もあります。2025年4月から「65歳までの雇用確保」が経過措置の終了により完全義務化されました。企業は65歳までの定年引き上げ、希望者全員の65歳までの継続雇用制度の導入、定年制の廃止のいずれかの対応が求められています。さらに2021年施行の改正高年齢者雇用安定法では、70歳までの就業機会確保が努力義務として定められています。
法的義務に加えて、深刻化する人手不足も企業を動かしています。日本の生産年齢人口は2030年に約5683万人まで減少するとの推計があり、シニア人材の活用は待ったなしの経営課題です。単に雇用を延長するだけでなく、処遇面でも意欲を引き出す制度設計が競争力の源泉となりつつあります。
注意点・展望
ジョブ型の「影」にも目を向ける必要性
日立の新制度は「同じ職務なら同じ報酬」という明快な原則に基づいていますが、これは裏を返せば「職務が変われば報酬も変わる」ことを意味します。再雇用後に担当業務の縮小や配置転換が行われれば、結果として報酬が下がる可能性は残ります。ジョブ型は年齢による不合理な減額を排除する一方で、職務評価の結果として生じる処遇変動は「合理的」とみなされる仕組みでもあるのです。
また、最高裁判所は2023年7月の名古屋自動車学校事件判決で、定年後再雇用者の基本給格差について、「基本給の性質や支給目的を踏まえて不合理かどうかを検討すべき」との判断を示しています。ジョブ型のように職務と報酬の関係が明確な制度は、こうした司法判断との整合性でも有利に働くと考えられます。
中小企業への波及が課題
大企業の先進的な取り組みが注目される一方で、日本の企業の大多数を占める中小企業への波及は大きな課題です。ジョブ型の制度設計には、精緻な職務分析やグレーディングのノウハウが必要であり、人事部門のリソースが限られる中小企業にとってハードルは高いのが現実です。
今後は、業界団体や行政による制度設計の支援、簡易的なジョブ型フレームワークの普及が鍵となるでしょう。シニア人材の処遇改善が一部の大企業にとどまるのか、日本の雇用慣行全体の転換につながるのかは、この波及のスピードにかかっています。
まとめ
日立製作所の新たな再雇用制度は、10年以上にわたるジョブ型人事改革の延長線上に位置する取り組みです。「年齢ではなく職務で報酬を決める」という原則を定年後にも貫くことで、再雇用=賃金ダウンという日本企業の常識に明確な転換を迫っています。
三菱電機や富士電機など他の大企業にも同様の動きが広がるなか、2025年の65歳雇用義務化と深刻な人手不足が改革を加速させています。シニア人材が持つ経験や専門知識を正当に評価し、報酬で報いる仕組みの構築は、企業の持続的な競争力に直結する経営課題です。自社の再雇用制度やシニア人材の処遇を見直す時期に来ているといえるでしょう。
参考資料:
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