花王ヘルシア売却が示すROIC経営の決断力
はじめに
花王が2003年に発売し、累計約31億本を売り上げた特定保健用食品(トクホ)飲料「ヘルシア」。体脂肪低減機能を謳ったトクホ茶の先駆者として、多くの消費者に親しまれてきたブランドです。しかし花王は2024年2月、このヘルシア事業をキリンホールディングス傘下のキリンビバレッジに譲渡する決断を下しました。
なぜ花王は「我が子」とも言えるブランドを手放したのか。その背景には、EVA経営の限界を認め、事業別ROICという新たな物差しで事業ポートフォリオを冷静に見つめ直す経営改革がありました。本記事では、花王の構造改革の全体像と、ヘルシア売却に至る経営判断のプロセスを解説します。
花王が直面した低収益体質の課題
売上は伸びても利益が出ない構造
花王は日本を代表する消費財メーカーとして、「アタック」「ビオレ」「メリーズ」など数多くのブランドを展開してきました。売上高は堅調に推移していたものの、2020年代に入ると営業利益率の低下が顕著になります。
特に2022年12月期には、原材料費の高騰や中国市場での苦戦が重なり、業績は大きく落ち込みました。売上高は伸びているにもかかわらず利益が出ない、いわゆる「低収益体質」に陥っていたのです。この状況は、花王が長年掲げてきた経営指標の限界を浮き彫りにしました。
EVA経営の落とし穴
花王は2000年代初頭から日本企業として先駆的にEVA(経済的付加価値)を経営の主指標として導入し、資本コストを上回る利益の創出を目指してきました。この「EVA経営」は長らく花王の看板として評価されてきましたが、大きな弱点がありました。
EVAは全社合計で評価されるため、収益性の高い事業が低収益事業の赤字を覆い隠してしまう構造的な問題があったのです。長谷部佳宏社長はこの点について、「収益性が低い事業があっても見過ごされていた」と率直に認めています。個別事業の実態が見えにくいまま、全体としては問題ないように見えてしまう。これが花王の経営悪化の根本原因でした。
ROIC導入による事業の「見える化」
中期経営計画「K27」の策定
2023年8月、花王は中期経営計画「K27」を策定しました。この計画の最大の特徴は、EVAに加えて事業別ROICを経営指標として導入したことです。ROIC(投下資本利益率)は、各事業がどれだけ効率よく資本を活用して利益を生み出しているかを測る指標です。
事業別ROICの導入により、これまでEVAの全社合計に埋もれていた低収益事業が明確に浮かび上がるようになりました。花王はこのデータをもとに、「グローバル・シャープトップ事業の擁立」を掲げ、成長が見込める事業への集中投資と、低収益事業からの撤退を同時に進める方針を打ち出します。
撤退ガイドラインの設定
K27では、事業撤退に関するガイドラインも明確に定められました。成長性と収益性の両面から各事業を評価し、基準を下回る事業については売却や撤退の検討対象とする仕組みです。感情や過去の実績ではなく、数値に基づいて判断する体制が整えられたことは、花王の経営改革において大きな転換点となりました。
この客観的な基準があったからこそ、累計31億本という輝かしい実績を持つヘルシアでさえ、冷静に売却対象として判断できたと言えるでしょう。
ヘルシア売却の決断
トクホ市場の構造変化
ヘルシアは2003年の発売当初、茶系飲料で初めて体脂肪低減効果を謳ったトクホ商品として大きな注目を集めました。しかし、2015年に機能性表示食品制度がスタートすると、市場環境は一変します。
機能性表示食品はトクホと比較して取得コストが低く、各飲料メーカーが次々と健康機能を訴求した製品を投入しました。伊藤園の「お〜いお茶 濃い茶」やサントリーの「特茶」といった競合製品が台頭し、国内緑茶市場におけるヘルシアのシェアはピーク時の約5%から2023年には1%未満にまで低下していました。
花王にとっての「非コア」事業
花王の本業はあくまで日用品・化粧品・ケミカルです。飲料事業は花王にとって周辺領域であり、飲料の販売ネットワークや開発ノウハウの面でも、専業メーカーに比べて不利な立場にありました。ROICの物差しで見れば、限られた経営資源を飲料事業に投入し続けるよりも、より高い収益性が見込める分野に振り向けるべきだという結論は明確でした。
しかし、現場にとってヘルシアは20年以上育ててきた「我が子」のような存在です。花王の技術力を象徴するトクホの先駆的ブランドであり、関わってきた社員の思い入れは計り知れません。この感情と経営合理性の狭間で、最終的にROICという客観的な指標が決断の後押しとなったのです。
キリンビバレッジへの譲渡
2024年2月1日、花王はヘルシア事業のキリンビバレッジへの譲渡契約を締結しました。譲渡対象は「ヘルシア緑茶」をはじめとする5製品8品種で、譲渡実行日は同年8月1日に設定されました。譲渡金額は非公開です。
キリンは飲料業界のリーディングカンパニーであると同時に、免疫機能に関する研究にも強みを持っています。健康飲料の分野で豊富な販売チャネルと開発力を有するキリンであれば、ヘルシアブランドの価値をさらに発展させることができる。花王としても、単なる事業売却ではなく、ブランドを最も活かせる相手への「託し」であったと言えます。
花王の構造改革が生んだ成果
ヘルシアだけではない事業整理
ヘルシアの売却は、花王の構造改革における一つのピースに過ぎません。花王はK27のもとで、以下のような事業整理を進めてきました。
まず、ペットケア事業として展開していた「ニャンとも清潔トイレ」の事業譲渡を実施しました。2024年度の決算では43億円の資産売却益が計上されています。さらに、中国でのベビー用紙おむつ(メリーズ)の現地生産も終了しました。中国市場での競争激化と収益性の低下を踏まえた判断です。
業績回復の実績
こうした構造改革は着実に成果を上げています。2024年12月期の連結決算では、売上高が1兆6284億円(実質3.3%増)、営業利益は前年比2.4倍の1466億円に達しました。売上総利益率も前年から1.9ポイント改善し39.2%となっています。
特にファブリック&ホームケア事業は営業利益率18.2%まで伸長し、長年赤字が続いていたサニタリー事業も黒字化を達成しました。低収益事業の整理と高付加価値製品への集中投資が同時に効いた結果です。
2025年12月期には営業利益1600億円(前年比9.1%増)を見込んでおり、回復基調は鮮明です。
注意点・展望
日本企業に広がる「捨てる経営」
花王のヘルシア売却は、日本企業における事業ポートフォリオの見直しの潮流を象徴する事例です。かつての日本企業は「持つ経営」が主流で、一度始めた事業は収益が悪化しても容易には手放さない傾向がありました。しかし近年、資本効率を重視する投資家の声やコーポレートガバナンス改革の進展により、事業を「捨てる」決断が求められるようになっています。
ただし、ROICを機械的に適用するだけでは、将来の成長の芽を摘んでしまうリスクもあります。短期的にはROICが低くても、中長期的な成長が見込める事業もあるため、数値だけでなく事業の将来性を含めた総合的な判断が重要です。
花王の次なる成長戦略
花王は構造改革の大半に目途をつけた2025年以降、成長戦略へと軸足を移す方針です。長谷部社長は「社会の切実な需要を中核事業に」と掲げ、グローバルでの展開加速を図っています。業界では存在し得ない戦い方やビジネスモデルで市場を攻略するという、攻めの姿勢が今後の花王の方向性を示しています。
まとめ
花王のヘルシア売却は、感情を超えた合理的な経営判断の好例です。20年以上愛されてきたブランドであっても、事業別ROICという客観的な指標で評価し、全社の成長のために手放す。この決断を可能にしたのは、明確な撤退ガイドラインの策定と、EVA経営の限界を直視した長谷部社長のリーダーシップでした。
構造改革の成果は業績数値に明確に表れており、花王は「捨てる経営」の実践者として、日本の消費財業界に新たなモデルを示しています。事業ポートフォリオの最適化に取り組む日本企業にとって、花王の事例は貴重な参考となるでしょう。
参考資料:
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