ナフサ危機で問われる日本石化供給網とエチレン設備再編の現実味
ホルムズ緊張で浮上したナフサ供給の盲点
ナフサは、原油からつくられる軽質留分で、エチレンやプロピレン、ベンゼンなどの基礎化学品の出発点です。そこから食品包装、日用品、衣類、自動車部材、電機部品、医薬品包装まで、多くの製品に使われる樹脂や化学品が生まれます。店頭に並ぶプラスチック製品だけでなく、工場の配管、電線被覆、物流資材にも関わるため、ナフサの調達は生活物資と産業インフラの両方を支える問題です。
今回の焦点は、エチレン設備の稼働率が67.3%まで低下しても、なぜ石油化学製品の供給が直ちに止まらなかったのかです。答えは単純な「余力」ではありません。国産ナフサ、非中東からの代替調達、製品在庫、需要の先取り、そして国内設備の過剰感が重なった結果です。危機が示したのは、日本の石化供給網が一定の耐久力を持つ一方で、その耐久力が価格、在庫、設備再編という三つの負担に支えられているという現実です。
経済産業省の2026年4月分石油統計速報では、同月の原油輸入量は407万キロリットルに落ち込み、中東依存度は87.6%でした。前年同月より依存度は下がりましたが、それでも輸入原油の大半を中東に頼る構図は変わっていません。ナフサ危機は、ホルムズ海峡の問題であると同時に、日本の製造業がどこまで単一の海上輸送路に依存できるのかを問う供給網の試験でもあります。
稼働率67.3%でも止まらない石化供給網の仕組み
石油化学工業協会の2026年4月実績では、エチレン生産量は28万3500トンでした。前月比では3.6%増えたものの、前年同月比では37.1%減です。稼働プラントの実質稼働率は67.3%となり、前年同月の78.6%を大きく下回りました。定期修理が4社4プラントで重なったこともあり、設備の動きだけを見ればかなり厳しい数字です。
それでも供給が全面的に崩れなかった理由は、石化製品の供給がクラッカーの当月稼働率だけで決まらないためです。ナフサクラッカーはエチレンだけを生産する設備ではなく、プロピレン、C4留分、芳香族原料などを同時に生みます。川下ではポリエチレン、ポリプロピレン、ポリスチレン、塩ビ、合成ゴムなどに分かれます。供給網は単線ではなく、在庫、輸入、出荷先の振り替え、各社の系列内融通を組み合わせて動きます。
国産ナフサと代替輸入の組み合わせ
石化協は、ホルムズ海峡の実質封鎖後も、国内石油精製からのナフサ調達を続け、中東以外からの輸入を広げ、製品在庫も活用していると説明しています。2024年のナフサ国別輸入比率を見ると、中東合計は73.6%でした。内訳ではアラブ首長国連邦が30.4%、クウェートが21.6%、カタールが15.4%を占めており、ナフサも原油と同様に中東依存が高い構造です。
この構造を短期間で変えるのは容易ではありません。ただし、国内製油所から供給される国産ナフサが一定量あることは、危機時の緩衝材になります。経済産業省の4月速報では、ナフサ生産は90万6660キロリットル、前年同月比77.2%でした。ナフサ輸入は110万3267キロリットル、同56.3%です。輸入の落ち込みは大きいものの、国内生産と在庫を組み合わせることで、製品供給の時間を稼いだ形です。
ここで重要なのは、供給維持が「安く安定的に供給できた」という意味ではない点です。非中東からの代替調達は、航路、船腹、品質、価格条件の調整を伴います。ナフサはクラッカーの収率に影響するため、単に同じ体積を輸入すればよいわけではありません。原料の性状が変われば、エチレンやプロピレン、芳香族の得られ方が変わり、川下製品の生産計画にも調整が必要になります。
三カ月超の樹脂在庫が持つ時間稼ぎ
もう一つの支えは在庫です。石化協の4月コメントでは、ポリエチレンやポリプロピレンなど主要製品について、国内需要の三カ月以上の在庫水準を維持しているとされています。月末の季節調整済み在庫率では、LDPEが3.3カ月、HDPEが3.6カ月、PPが3.0カ月、PSが1.5カ月でした。包装材や工業部品向けで使われる主要樹脂に一定の在庫があったことが、供給不安を緩和しました。
ただし、在庫は万能ではありません。まず、製品ごとに在庫水準が異なります。ポリプロピレンは自動車部品や家電、繊維、食品容器に広く使われますが、グレードが細かく分かれます。需要家が必要とする銘柄と在庫の銘柄が一致しなければ、帳簿上の在庫があっても現場では不足感が出ます。次に、需要家側の先買いが在庫を偏らせます。原料情勢の先高感が強まると、加工メーカーや商社が通常より早く手当てし、結果として流通在庫が一部に滞留します。
したがって、67.3%という稼働率は「供給危機ではない」と読むより、「危機を在庫と調達変更で吸収している段階」と読むべきです。製造業にとってのリスクは、突然の全面停止よりも、品目別の納期遅れ、グレード変更、価格改定、代替材料の承認遅れとして表れます。自動車、電機、建設資材、包装材のように認証や品質基準が厳しい業界ほど、原料が少し変わるだけで現場調整の負担が大きくなります。
中国過剰設備と国内クラッカー再編の圧力
今回のナフサ危機は、短期の地政学リスクとして注目されました。しかし、国内エチレン設備の稼働率低下は、ホルムズ海峡だけで説明できる現象ではありません。日本の石油化学産業は、すでに構造的な需要減退とアジアの供給過剰に直面していました。経済産業省は、国内のエチレン供給能力が過剰になっており、各地のコンビナートで連携を進めていると説明しています。
石化協によると、2024年末の国内エチレン生産能力は616万2000トンです。定期修理を考慮した現実的な能力は別途見積もる必要がありますが、国内需要が伸び悩むなかで、この能力を高稼働で維持するのは難しくなっています。経産省の石油製品需要見通しでも、ナフサ需要は2025年度に3395万キロリットル、前年度比0.8%減と見込まれ、2024年度から2029年度までの期間では年平均2.6%減、全体で12.2%減とされています。
構造不況が先に進めていた設備集約
国内各社の再編は、危機が起きる前から進んでいました。ENEOSは2025年2月、川崎製油所の浮島南地区・川崎地区にあるエチレン製造装置の一部停止を前提に、供給体制の最適化を検討すると発表しました。停止時期の目途は2027年度末です。同社は背景として、国内石化製品の構造的な需要減退、中国を中心とする設備新増設、国際競争の激化を挙げています。
出光興産と三井化学も、千葉地区のエチレン装置集約で最終合意しています。2027年7月に出光側の装置を停止し、三井側の装置1基に集約する計画です。対象となる千葉ケミカル製造有限責任事業組合のエチレン生産能力は年92万トンで、内訳は出光装置37万トン、三井装置55万トンです。二つの装置を持ち続けるより、一基に集めて稼働率を上げ、固定費を下げる狙いが明確です。
西日本でも、旭化成、三井化学、三菱ケミカルがエチレン生産体制の最適化とグリーン化で連携しています。2030年度を目途に、三菱ケミカル旭化成エチレンの水島工場設備を停止し、大阪石油化学の設備へ集約する計画です。統合前の生産能力は95.1万トン、統合後は45.5万トンとされ、設備集約による二酸化炭素排出削減効果も見込まれています。ここでは供給不安への対応だけでなく、脱炭素投資と競争力維持が一体のテーマになっています。
脱炭素と供給責任を両立させる投資
三菱ケミカルグループは2026年5月、石油化学事業を主体とする基礎化学品事業の分社化検討を始めたと公表しました。将来の他社統合や業界再編を見据え、国内サプライチェーンの強靱化や経済安全保障への貢献を掲げています。中東情勢が緊迫するなか、基礎化学品の安定生産と流通が社会的要請になっているという問題意識も示されています。
この動きは、国内石化の役割が「安い大量供給」から「必要量を確実に供給し、脱炭素にも対応する基盤」へ変わりつつあることを意味します。大量生産で中国や中東の大型設備と正面から競争するだけでは、国内クラッカーの採算は改善しにくいです。一方で、すべてを輸入に置き換えれば、今回のような海上輸送路のリスクをまともに受けます。残す設備を絞り、稼働率を高め、リサイクル原料や低炭素プロセスを組み込むことが現実的な選択肢になります。
その象徴の一つが、ENEOSと三菱ケミカルが茨城で進める廃プラスチック油化設備です。使用済みプラスチックを化学的に分解し、生成油を既存の石油精製装置やナフサクラッカーの原料として使う構想です。規模やコスト面の課題は残りますが、ナフサを全量輸入に頼る構造を少しずつ緩める技術として位置付けられます。
価格転嫁と在庫偏在が広げる川下産業の不確実性
供給が維持されている局面でも、価格面のリスクは残ります。米エネルギー情報局は、ホルムズ海峡を通る石油フローが世界の海上石油貿易の4分の1超、世界の石油・石油製品消費の約5分の1に相当すると説明しています。迂回パイプラインはありますが、利用できる余剰能力には限界があります。つまり、ナフサだけでなく原油、LNG、石油製品の価格が同時に振れやすい環境です。
日本政府は石油備蓄の放出も進めています。資源エネルギー庁によると、2026年3月末時点の石油備蓄は合計233日分でした。経済産業省は4月24日、第2弾として約580万キロリットルの国家備蓄石油を5月以降に順次放出すると発表しました。原油については代替調達の進展で年を越えた供給確保の目途がついたとしていますが、備蓄は時間を買う仕組みであり、恒久的な調達先ではありません。
川下産業にとって注意すべきなのは、数量よりも価格と仕様の変化です。包装材メーカーは樹脂価格の上昇をすぐに小売向け価格へ転嫁できるとは限りません。自動車部品や電機部品では、材料変更に評価試験や顧客承認が必要です。建設資材では、案件ごとの見積もり期間と材料価格改定のタイミングがずれます。供給が「ある」ことと、既存条件で「使える」ことは別です。
さらに、国際エネルギー機関は、2026年以降の世界の石油需要成長で石油化学が中心的な役割を持つと見ています。ガソリンや軽油需要が長期的に伸びにくくなる一方、石化向け需要は残ります。中国や米国の能力増強が進むなか、日本は量の競争から距離を取りながら、国内に必要な基礎化学品をどう確保するかを考える必要があります。ホルムズ危機は、その判断を前倒しした出来事です。
製造業が点検すべきナフサ依存の実務課題
今回のナフサ危機から得られる教訓は、石化メーカーだけのものではありません。川下の製造業は、まず主要材料の原料起点を確認する必要があります。ポリエチレン、ポリプロピレン、ポリスチレン、塩ビ、合成ゴム、溶剤、接着剤、塗料の一部は、調達先が違っても同じナフサ由来の供給網に乗っている場合があります。購買先を複数にしていても、上流のクラッカーや輸入ナフサが重なっていれば、分散効果は限定的です。
次に、在庫の量だけでなく、代替仕様の承認状況を点検すべきです。危機時に不足するのは「樹脂全体」ではなく、特定グレード、特定添加剤、特定成形条件に合う材料です。設計、品質保証、購買、営業があらかじめ代替材の評価を進めておけば、納期遅れや急な価格改定への対応余地が広がります。とくに自動車、電機、医療包装、食品包装では、平時の承認準備が危機時の供給力になります。
最後に見るべき指標は、エチレン設備の稼働率だけではありません。ナフサ輸入量、国産ナフサ生産量、主要樹脂の在庫率、原油備蓄の放出状況、各社の設備停止計画を合わせて読む必要があります。67.3%という稼働率は危機の表面にすぎません。背後では、国内石化産業が過剰設備を畳みながら、残す設備に供給責任と脱炭素投資を集中させる再編が進んでいます。
日本の石化供給網は、今回の局面で完全には折れませんでした。しかし、それは余裕が十分にあるからではなく、在庫、備蓄、代替調達、設備再編の組み合わせで持ちこたえているからです。製造業に必要なのは、短期の在庫確保だけでなく、自社製品がどの基礎化学品に依存し、どの設備再編の影響を受けるのかを見える化することです。ナフサ危機は、購買部門だけでなく、設計と経営が共有すべき供給網リスクになっています。
参考資料:
- 2026年4月実績概要(メモ)
- 日本の石油化学製品の生産能力|石油化学工業協会
- 石油化学用原料ナフサ|石油化学工業協会
- 令和8年4月分|石油統計速報(速報のみ)|経済産業省
- 石油統計速報 令和8年4月分 PDF|経済産業省
- 第2弾の国家備蓄原油の放出を行います|経済産業省
- 石油備蓄の現況 令和8年5月|資源エネルギー庁
- エネルギー白書2025 第2部第1章第1節|資源エネルギー庁
- 2025~2029年度石油製品需要見通し|経済産業省
- Amid regional conflict, the Strait of Hormuz remains critical oil chokepoint|EIA
- Oil 2025 Executive Summary|IEA
- 当社石油化学製品の生産・供給体制の再構築について|ENEOS
- 千葉地区エチレン装置集約による生産最適化の最終合意について|三井化学
- 西日本エチレン生産体制のグリーン化推進に向けた基本契約締結|三井化学
- 石油化学事業の分社化に向けた検討開始に関するお知らせ|Mitsubishi Chemical Group
- プラスチック油化の開始に向けたケミカルリサイクル設備を竣工|ENEOS
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