王子HDが退職一時金廃止へ、賃上げに転換
はじめに
王子ホールディングス(HD)が、2026年春入社以降の社員を対象に退職一時金を廃止する方針を明らかにしました。廃止によって生まれる原資を月給に上乗せし、若年層を中心とした人材獲得力の強化を図ります。
大企業が退職一時金を全面的に廃止するのは極めて異例です。退職一時金は終身雇用を前提とした日本型雇用モデルの根幹をなす制度であり、その廃止は日本の雇用慣行が大きな転換点を迎えていることを象徴しています。本記事では、王子HDの決断の背景と、日本全体の雇用制度への影響を詳しく解説します。
退職一時金廃止の背景と狙い
若年層の価値観変化
退職一時金は、勤続年数に応じて金額が増える仕組みです。長期勤続へのインセンティブとして機能してきましたが、近年の若年層には「将来の退職金よりも今の月給」を重視する傾向が強まっています。
中途入社の拡大や、NISAをはじめとする個人の資産形成手段の普及により、若い世代は自分自身で将来設計を行う意識が高まっています。企業に資産運用を委ねる退職金制度は、こうした価値観と合致しなくなっているのが実態です。
採用競争力の再定義
人材獲得競争が激化する中、王子HDの決断は採用市場での競争力を高める狙いがあります。転職市場が拡大し、「新卒で入社して定年まで勤める」というキャリアモデルが崩れつつある中、退職一時金の存在は転職のハードルを上げる「見えない鎖」として機能してきました。
退職一時金を廃止して月給を引き上げることで、中途入社者にとっても不利のない報酬体系を構築できます。同時に、在籍社員にとっても毎月の手取りが増えるため、生活の質の向上を実感しやすくなります。
財務面のメリット
企業にとって退職給付債務は大きな財務リスクです。将来の退職金支払いに備えて引当金を積む必要があり、金利変動や退職者数の見通し次第で巨額の損失が発生する可能性があります。退職一時金の廃止により、こうした不確実性を解消できるメリットもあります。
日本型雇用モデルの転換点
退職給付制度の縮小トレンド
厚生労働省の就労条件総合調査によると、退職給付制度を持つ企業の割合は74.9%です。1,000人以上の大企業では90.1%が制度を維持していますが、前回調査の80.5%から低下傾向にあります。
ただし、これまでの縮小は中小企業が中心であり、大手企業が退職一時金を「全面廃止」する事例は極めて珍しいものです。王子HDの決断は、大企業においても雇用慣行の抜本的な見直しが進み始めたことを示す象徴的な出来事です。
人材流動化の加速
第一生命経済研究所の調査によると、1,000人以上の大企業間での人材移動は、2014年の17万人から2023年には32万人にほぼ倍増しています。大企業間の転職が当たり前になる中で、勤続年数に連動する退職一時金の制度設計は、人材流動化の足かせとなりかねません。
2026年度の賃上げ動向に関する東京商工リサーチの調査では、実施予定の企業は83.6%に達しています。しかし、賃上げ率「5%以上」は35.5%と前年度から低下しており、原資の確保が課題となっています。退職一時金の廃止で生まれた原資を賃上げに充てるという王子HDのアプローチは、他社にとっても参考になる手法です。
パナソニックの大規模人員削減との対比
2026年にはパナソニックが1万人規模の早期退職を実施するなど、日本の大企業における人事制度改革が加速しています。パナソニックの事例が「雇用の出口」に焦点を当てたものであるのに対し、王子HDの退職一時金廃止は「雇用の入口と在籍中の待遇」を変革するアプローチです。
いずれも、終身雇用と年功序列を前提とした従来の日本型雇用モデルからの脱却という大きな流れの中にあります。
注意点・今後の展望
王子HDの退職一時金廃止は2026年春入社以降の社員が対象であり、既存社員の退職一時金は維持されます。そのため、社内に二つの制度が併存する移行期間が生じる点には注意が必要です。
また、退職一時金には税制上の優遇措置(退職所得控除)があります。月給に上乗せされた場合、給与所得として課税されるため、税引後の手取りで比較すると一概に有利とは言えないケースもあります。個人の勤続年数やライフプランによって損得が変わるため、社員にとっては慎重な試算が求められます。
今後、王子HDに続いて退職一時金の見直しに動く大企業が出てくる可能性があります。特に製造業やインフラ関連企業では、人材獲得競争の激化と賃上げ圧力を背景に、報酬体系の再設計が経営課題となっています。
まとめ
王子HDの退職一時金廃止は、日本の雇用慣行における大きな転換点です。「将来の退職金」よりも「今の月給」を重視する若年層の価値観、中途採用の拡大、そして人材流動化の加速が、この決断を後押ししました。
退職一時金は終身雇用を支える柱の一つでしたが、働き方の多様化が進む現在、その役割は変わりつつあります。税制面の影響や既存社員との制度併存など課題はあるものの、報酬を「今」に集中させるこのアプローチが他社にも広がれば、日本の雇用制度は新たな段階に入ることになるでしょう。
参考資料:
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