退職一時金は消えるのか人材流動化で変わる長期勤続優遇制度の現在地
退職一時金見直しが映す雇用制度の転換点
退職一時金は、長く勤めた人が退職時にまとまった資金を受け取る仕組みとして、日本型雇用を支えてきました。ところが近年は、企業が退職金を毎月の給与や企業型DCに振り替える動きが注目されています。背景にあるのは、単なるコスト削減ではなく、人材獲得競争、転職市場の拡大、政府が進める労働移動円滑化の政策です。
結論からいえば、退職一時金が一斉になくなる局面ではありません。厚生労働省の令和5年就労条件総合調査では、退職給付制度がある企業は74.9%です。ただし、平成30年調査の80.5%からは低下しており、制度の形は変わりつつあります。大切なのは「退職金の有無」だけでなく、いつ、どの形で、誰に厚く配分されるのかを読むことです。
退職金制度を支える後払い賃金と税制優遇
退職一時金と企業年金の違い
退職給付には大きく分けて、退職時にまとまって受け取る退職一時金と、年金の形で受け取る退職年金があります。令和5年就労条件総合調査では、退職給付制度がある企業のうち「退職一時金制度のみ」は69.0%、「退職年金制度のみ」は9.6%、「両制度併用」は21.4%でした。つまり、多くの企業ではなお一時金が中心です。
ただし企業規模で見ると姿はかなり違います。退職給付制度がある企業の割合は、1,000人以上で90.1%、30~99人で70.1%です。制度がある企業に限ると、1,000人以上では両制度併用が47.1%、退職年金制度のみが27.0%で、一時金だけに依存する割合は25.9%に下がります。大企業ほど、退職一時金と企業年金を組み合わせてきた歴史があります。
企業年金の内訳でも変化が進んでいます。退職年金制度がある企業では、確定給付企業年金が44.3%、企業型確定拠出年金が50.3%です。確定給付型は企業が将来給付に責任を持つ色合いが強い一方、企業型DCは拠出された掛金と運用結果で給付額が決まります。企業から見れば、将来債務を読みやすくしやすい制度です。
長期勤続ほど厚くなる控除設計
退職一時金が強い魅力を持ってきた理由は、税制にもあります。国税庁によると、一般的な退職所得は「収入金額から退職所得控除額を差し引き、その2分の1を課税対象にする」仕組みです。さらに他の所得と分けて課税されるため、給与や賞与より税負担が軽くなりやすい構造です。
退職所得控除は勤続年数に連動します。勤続20年以下は「40万円×勤続年数」、20年超は「800万円+70万円×20年超の年数」です。20年を境に、1年あたりの控除額が40万円から70万円に増えるため、長期勤続者ほど税制上のメリットが厚くなります。
この設計は、定年まで同じ会社で働く前提とは相性がよい制度です。厚生労働省の調査では、勤続20年以上かつ45歳以上の定年退職者について、大学・大学院卒の管理・事務・技術職の平均退職給付額は1,896万円でした。制度形態別では、退職一時金制度のみが1,623万円、退職年金制度のみが1,801万円、両制度併用が2,261万円です。老後資金の柱として大きいことは間違いありません。
一方で、長く勤めるほど大きく有利になる設計は、若年・中堅層の転職や中途採用者にはわかりにくい制度です。転職先で勤続年数がリセットされるなら、退職金は将来の期待報酬であっても、いまの職務価値を示す報酬にはなりにくいからです。
人材流動化で揺らぐ長期勤続インセンティブ
自己都合退職の減額が生む移動コスト
退職金見直しの核心は、長期勤続そのものではなく「転職すると損をする」設計にあります。内閣府の令和7年度年次経済財政報告は、自己都合退職時の退職金減額が労働移動を一定程度阻害していると分析しています。大卒総合職のモデルでは、勤続3年目の会社都合退職金が69.6万円に対し、自己都合は34.1万円でした。勤続30年目でも、会社都合2,055万円に対し、自己都合1,772万円です。
この差は、転職時の心理的なブレーキになります。内閣府の試算では、勤続15年で転職する場合、年収が4.9%上がれば生涯所得が同等になりますが、自己都合退職の減額がなければ必要な上昇率は3.8%に下がります。つまり退職金の減額慣行だけで、転職に必要な賃上げ幅を1%ポイント程度押し上げる効果があります。
政府もこの点を制度面から動かしています。厚生労働省はモデル就業規則を改訂し、退職金支給に関する「勤続何年以上」や、自己都合退職者への不支給例を削除しました。法的に各社の退職金制度を直ちに変えるものではありませんが、長期勤続を過度に固定する制度慣行を見直すシグナルです。
雇用保険でも、自己都合退職の給付制限は2025年4月1日以降の退職で原則1か月になりました。従来より短くなったことで、失業給付面でも自発的な移動のハードルは下がっています。退職金、失業給付、求人情報の整備が同時に見直されている点に、政策の方向性が表れています。
企業が月例給や企業型DCへ移す理由
企業側の事情も明確です。採用競争が強まるなか、若手や中途人材にとって「30年後にもらえるかもしれない一時金」より、現在の給与や持ち運べる年金資産の方が訴求しやすくなっています。厚生労働省の労働経済分析では、2024年の転職者数は331万人で3年連続増加しました。15~54歳の正規雇用から正規雇用への移動も増えています。
一方で、人材流動化は一直線に進んでいるわけではありません。リクルートワークス研究所の調査では、前年に転職を希望した人の転職率は11.8%で、10年で2.7ポイント低下しています。転職希望と実現の間にはなお大きな隔たりがあります。退職金制度の見直しは、この隔たりを埋める一つの部品にすぎません。
企業にとって、退職一時金を給与化する利点は三つあります。第一に、初任給や中途採用時の提示年収を高めやすくなります。第二に、長期勤続者に偏っていた原資を、現在の役割や成果に近い報酬へ移せます。第三に、将来の退職給付債務を抑え、財務上の見通しを立てやすくできます。
実際、共同通信の配信記事では、王子ホールディングスが2026年春以降に入社する新卒・中途社員を対象に、将来の退職一時金を廃止し、給与上乗せまたは会社拠出年金の増額を選べる制度へ移したと報じられました。同記事は、同社で中途採用比率が高まっていることも背景に挙げています。既存社員の制度をただちに廃止するより、新規入社者から制度を分ける方が導入しやすい典型例です。
企業型DCへの移行も重要です。厚生労働省は、確定拠出年金について、離転職時に資産を他制度へ持ち運べる場合があると説明しています。転職を前提にすると、ポータビリティは大きな利点です。ただし給付額は運用結果に左右され、原則として60歳前に自由に引き出せる制度ではありません。給与化より老後資金性は保ちやすい一方、投資教育と手数料の透明性が不可欠です。
制度変更で生じる老後資金と公平性の課題
退職一時金を給与に上乗せすれば、毎月の手取りや提示年収は上がります。しかし、その分を消費してしまえば老後資金は減ります。退職一時金は強制貯蓄に近い機能を持っていたため、給与化は自由度を高める一方で、個人の資産形成能力への依存を強めます。
税制上の違いも無視できません。退職所得は退職所得控除と2分の1課税により優遇されますが、給与として受け取れば給与所得として課税され、社会保険料の算定にも影響し得ます。企業が「同じ原資を移した」と説明しても、従業員の可処分所得や将来資産は同じにならない可能性があります。
既存社員の扱いも難題です。退職金は賃金後払いの性格を持つとされ、すでに積み上がった期待権を一方的に減らす変更は紛争になりやすい領域です。厚生労働省は、労働契約の変更では労使の合意が基本であり、就業規則を不利益に変える場合は合理性と周知が必要だと示しています。退職金見直しは、制度設計だけでなく労使コミュニケーションの問題です。
今後は、全面廃止よりも複線化が現実的です。既存社員は従来制度を維持し、新規入社者は給与上乗せや企業型DCを選ぶ。あるいは退職一時金、企業型DC、前払い手当を一定範囲で選択できる制度にする。企業の人材戦略は、年功的な一律処遇から、職務、スキル、キャリア段階に応じた配分へ移っていきます。
働き手が確認すべき退職給付の実務論点
退職一時金の見直しは、働き手にとって不利益とは限りません。若いうちから給与が増え、企業型DCの資産を持ち運べるなら、転職や学び直しを前提にしたキャリア設計には合います。一方で、定年まで同じ会社で働く人、投資に不慣れな人、住宅ローンや教育費で貯蓄余力が限られる人には、退職時のまとまった資金が減るリスクがあります。
確認すべきなのは、制度名ではなく総額と条件です。退職一時金の算定式、自己都合退職時の減額、勤続年数による増え方、企業型DCの会社掛金、マッチング拠出の有無、60歳前後の受け取り方、転職時の移換先を見てください。給与上乗せがある場合は、退職所得として受け取る場合との差も試算が必要です。
企業側も、退職金をなくすほど採用力が上がるとは限りません。制度変更の目的が採用競争なのか、財務負担の平準化なのか、職務給への移行なのかを明確にしなければ、従業員には単なる給付削減に見えます。これからの退職金制度は、長く勤めた報奨ではなく、働き手が自分のキャリアと老後資金を設計できる報酬インフラとして問われます。
参考資料:
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