三井住友信託銀行、退職金・年金の年功廃止で働き方はどう変わる
退職給付の算定軸を年数から役割へ移す改革
三井住友信託銀行は2026年度中に、勤続年数に応じて退職金と企業年金の支給額が増える仕組みを廃止し、能力と役割を反映する制度へ移行する方針です。長く在籍した事実ではなく、どの専門性を持ち、どれだけ重い責任を担ったかを老後資金にも反映させます。
これは退職給付そのものの廃止ではありません。賃金だけでなく、後払い賃金の性格を持つ退職給付まで年功から切り離す点が重要です。中途入社者と生え抜き社員の差、転職をためらわせる長期勤続プレミアム、AI時代に評価すべき経験の中身という三つの論点から、改革の意味を読み解きます。
勤続年数を外す制度設計と受取額への影響
年功部分の廃止と退職給付の基本構造
日本企業の退職給付では、勤続年数や退職時の基本給を計算式に入れる方式が長く使われてきました。在籍期間が延びるほど支給率が上がり、定年まで勤める誘因をつくる設計です。会社にとっては定着を促す仕組みであり、働き手にとっては若年期の賃金を抑える代わりに将来の給付を受け取る暗黙の約束でもありました。
厚生労働省の令和5年就労条件総合調査では、常用労働者30人以上の民営企業のうち退職給付制度がある企業は74.9%でした。そのうち退職一時金だけの企業は69.0%、退職年金だけは9.6%、両方を併用する企業は21.4%です。退職給付は一部の大企業だけの特殊な制度ではなく、なお日本の標準的な雇用条件だと分かります。
同調査で、勤続20年以上かつ45歳以上の大学・大学院卒の定年退職者を見ると、管理・事務・技術職の平均退職給付額は1,896万円でした。退職一時金と年金を併用する場合は2,261万円です。ただし、これは調査対象企業の平均であり、三井住友信託銀行の支給水準を示す数字ではありません。制度変更が家計に与える影響の大きさを理解するための参考値です。
今回の年功廃止は、「在籍年数だけで自動的に増える部分」をなくす改革と捉えるべきです。年功部分がなくなったからといって給付がゼロになるわけでも、長期勤続者が必ず減額されるわけでもありません。高い能力を獲得し、大きな役割を継続して担えば、その評価の積み上げによって給付は増え得ます。反対に、役割が変わらなければ、勤続だけを理由とする上積みは期待しにくくなります。
受取額を判断するには、新制度の付与ポイントや掛け金、能力・役割区分ごとの単価、過去分の扱いを見る必要があります。旧制度で既に積み上がった権利を固定するのか、新旧制度を併存させるのか、移行時に調整額を設けるのかで結果は大きく変わります。年功廃止という言葉だけから、個人別の増減を計算することはできません。
中途採用と社内異動に生じる新たな対称性
役割基準の最大の効果は、同じ仕事を担う人を入社年次に左右されず処遇しやすくする点です。従来の勤続比例部分が大きいと、専門性の高い人が中途入社しても、同年代の生え抜き社員より退職給付の蓄積で不利になりやすくなります。年数を外せば、入社時点から役割に応じた価値を積み上げられ、経験者採用の条件を比較しやすくなります。
社内異動にも影響します。部署の年次秩序ではなく、役割の難易度や必要スキルが給付に結びつけば、行員は将来のポストと報酬を見ながら、専門職や管理職、成長部門への移動を選べます。一方、会社には職務の大きさと能力要件を言語化し、異なる部門でも一貫して評価する責任が生じます。
三井住友トラストグループは人的資本方針で、三井住友信託銀行の評価・処遇を能力・役割・成果に応じて行い、本人参加型で課題設定と振り返りをすると説明しています。ライン長に対する匿名の多面サーベイも導入済みです。2025年度に始めた人事制度に、退職給付を接続する流れと位置づけられます。
ただし、能力と役割は成果より広い概念です。短期の営業成績だけでなく、専門知識、顧客本位の判断、リスク管理、後進育成、部門間の協働まで評価対象に含めなければ、信託銀行の仕事を正しく測れません。制度の成否は年功を消すことよりも、何を「能力」と呼び、どの責任を「役割」として格付けするかにかかっています。
労働移動とAI時代の人材戦略をつなぐ狙い
長期雇用の「見えない違約金」の縮小
年功型の退職給付には、転職した瞬間に将来の上積みを失う「見えない違約金」の面があります。月例賃金が上がる転職でも、定年時の退職金や企業年金まで比べると不利になることがあり、特に勤続期間が長いミドル層ほど移動をためらいやすくなります。企業には人材を囲い込む効果がありますが、成長分野への移動を遅らせる副作用もあります。
令和7年版労働経済白書によると、過去1年以内に離職し、現在は正規雇用で働く転職者は2013年から2024年までに37万人増えました。正規雇用の転職希望者は同期間に254万人増え、実際の転職者を大きく上回ります。仕事内容や賃金以外の労働条件への不満が移動理由として目立つ一方、希望を行動に移す障壁はなお残っています。
退職給付を役割基準に変えれば、退職時期によって急に得失が変わる崖を低くし、中途入社者にも公平な蓄積機会を示せます。三井住友信託銀行にとっては、資産運用やIT・DXなどの戦略領域で外部人材へのオファーを組み立てやすくなる効果が期待できます。行員側も、社内公募と社外転職を同じ物差しで比較しやすくなります。
もっとも、企業内の算定式が変わっても、税と年金の制度が自動的に変わるわけではありません。国税庁の2026年版資料では、退職所得控除は勤続20年以下なら1年につき40万円、20年を超える部分は1年につき70万円で計算します。会社が年功要素を外しても、税制には長期勤続を優遇する構造が残ります。
企業型確定拠出年金から転職する場合は、資産の移換手続きも別に必要です。厚生労働省の案内では、資格喪失後6カ月以内にiDeCoや転職先制度などへ移さないと自動移換され、運用が止まり、手数料も発生します。「会社に縛られにくくなること」と「何もしなくても老後資金を持ち運べること」は同義ではありません。
AIが変えるのは経験年数より仕事の中身
今回の改革には、AIで定型的な事務作業を減らし、人材を付加価値の高い仕事へ移す経営課題も重なります。書類の下準備や照合、情報検索の一部をAIが担えば、単に同じ作業を長く経験したことの希少性は下がります。会社は在籍年数ではなく、AIを使って判断の質を高め、新しい顧客価値を生み出せる能力に報いる必要があります。
ただし、「AIの進化で経験の価値が下がる」と一括りにするのは正確ではありません。令和8年版労働経済白書は、AIには仕事の一部を代替する面と、労働者の生産性を高めて仕事を補完する面の両方があると整理しています。重要性が高まる能力として、論理的・批判的思考やコミュニケーションなど、特定業務に閉じないメタスキルも挙げています。
ILOの2026年の実証研究レビューでも、生成AIによる大規模な雇用喪失は現時点で限定的です。生産性向上は確認されるものの均一ではなく、節約時間が生産量や賃金の上昇に直結したとも言い切れません。AI導入を根拠に、経験年数を無価値とみなすのは飛躍があります。
信託銀行では、相続、不動産、資産運用、企業年金などの知識を組み合わせ、長期の信頼関係の中で解をつくる仕事が多くあります。規制や市況の変化を過去の事例と結びつける力、顧客が言語化していない懸念をつかむ力、異常を察知して立ち止まる力は、経験から育つ能力です。OECD雇用見通し2025も、経験を評価する職種では年齢とともに生産性を保ちやすい一方、継続学習が欠かせないと指摘しています。
したがって、新制度が評価すべきなのは「何年いたか」ではなく、「経験を再利用可能な専門性へ変えたか」です。ベテランの暗黙知を後進に移す行為や、AIの出力を検証して事故を防ぐ判断も役割として可視化できれば、年功廃止と経験尊重は両立します。
評価の透明性と長期貢献をめぐる三つの課題
第一の課題は、評価者の裁量です。役割等級の定義が曖昧なら、上司との相性や目立つ案件の有無が老後資金にまで響きます。営業収益のように測りやすい成果へ偏ると、コンプライアンス、事務品質、顧客保護、チーム支援といった「事故を起こさなかった価値」が過小評価されます。評価基準、異議申立て、部門間調整の仕組みを月例賃金以上に丁寧に開示する必要があります。
第二は、長期志向との緊張です。信託業務では、今期の利益を見送ってでも受益者や顧客の利益を守る判断が求められます。役割の大きさを短期業績と同一視すれば、案件獲得や昇格を急ぐ行動を促しかねません。複数年での顧客評価、リスク管理、知識継承を能力・役割ポイントに組み込み、成果が出るまで時間のかかる仕事を守る設計が必要です。
第三は、移行時の公平性です。新制度の詳細が示されたら、既に積み上げた給付、今後の付与、定年前後の経過措置を分けて確認しなければなりません。特定の年齢層だけが大きく不利になれば、納得感と定着を損ないます。厚生労働省の労働契約ルールでは、就業規則による不利益変更には内容の合理性と労働者への周知が必要です。今回の変更が個々人に法的な不利益を与えるかは具体的な制度と経過措置次第であり、骨格だけでは判断できません。
企業年金が確定給付型か確定拠出型か、会社拠出がどの評価項目と連動するかでもリスクの所在は変わります。能力・役割による差を大きくしすぎれば、現役時の評価変動が老後資金の格差として固定されます。最低保障や変動幅の上限、育児・介護・病気で役割を一時的に縮小した人への扱いまで含めて初めて、公平な制度といえます。
行員と企業が移行前に確かめるべき実務項目
行員は制度説明を待つだけでなく、旧制度で確定した額、新制度への切替日、毎年の付与額、退職事由による差、年金の受取方法を個人別に確認する必要があります。少なくとも複数の退職時期と役割変更を置いた試算を求め、税引き後の受取額と公的年金、企業年金、私的資産を一つの表で捉えることが有効です。転職を考える場合は、移換先と期限も同時に確認します。
キャリア面では、年次ではなく市場で説明できる能力を棚卸しします。担当案件、資格、顧客課題の解決、リスク回避、後進育成を記録し、次の役割に必要なスキルとの差を学習計画へ落とし込むべきです。会社側は役割定義、評価例、個人別シミュレーション、相談・不服申立てをセットで示す必要があります。
三井住友信託銀行の改革は、長期雇用を否定するものではなく、長く働く理由を「在籍すれば増える給付」から「専門性を高めれば報われる機会」へ置き換える試みです。成否を分けるのは、能力評価の透明性、過去分を守る移行設計、長期貢献を測る物差しです。この三点が整えば、老後資金を人質にしない雇用と、経験を正当に評価する組織を同時に目指せます。
参考資料:
- 三井住友信託銀行「人事制度」
- 三井住友トラストグループ「人的資本」
- 三井住友トラストグループ100年史「未来適合型の人事制度へ」
- 三井住友トラストグループ「統合報告書2026・人的資本」
- 厚生労働省「令和5年就労条件総合調査」
- 厚生労働省「退職給付制度の形態」
- 厚生労働省「退職給付の支給実態」
- 厚生労働省「年金資産の持ち運び」
- 国税庁「令和8年版 源泉徴収のあらまし」
- 厚生労働省「令和7年版 労働経済の分析」
- 厚生労働省「2025年上半期雇用動向調査」
- 厚生労働省「令和8年版 労働経済の分析」
- ILO「生成AIの雇用・生産性・仕事編成への影響」
- OECD「Employment Outlook 2025」
- 厚生労働省「労働契約に関する法令・ルール」
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