丸井グループが「フロー状態」をKPIに設定する狙い
丸井グループが挑むフローKPI経営
丸井グループが、社員の「フロー状態」を経営のKPI(重要業績評価指標)に据えるという、日本企業では異例の取り組みを進めています。フロー状態とは、心理学者ミハイ・チクセントミハイ氏が提唱した概念で、能力と挑戦のレベルが高い水準で合致し、時間を忘れて没頭できる最適な心理状態を指します。
従来のエンゲージメント調査では測りきれない「没頭の質」に着目し、社員の創造性と生産性を最大化する組織への変革を目指す同社の戦略は、人的資本経営の新たなモデルケースとして注目を集めています。本記事では、丸井グループがフロー状態を経営指標に組み込んだ背景とその具体的な仕組みを解説します。
フロー状態とは何か——チクセントミハイ理論の基本
「ゾーン」とも呼ばれる最適経験
フロー状態は、スポーツの世界では「ゾーン」、武道では「無の境地」とも表現される心理状態です。チクセントミハイ氏の研究によれば、人は自分の能力レベルと挑戦レベルが共に高い状態にあるとき、深い集中と喜びを伴うフローに入りやすくなります。
この理論を視覚化した「4チャンネルフローモデル」では、能力も挑戦も低い状態を「無関心」、能力は高いが挑戦が低い状態を「退屈」、能力は低いが挑戦が高い状態を「不安」、そして両方が高い状態を「フロー」として分類します。企業経営においては、社員が退屈でも不安でもなく、フローの領域に入れる環境をいかに整えるかが鍵となります。
エンゲージメントとフローの違い
エンゲージメントが「組織への愛着や貢献意欲」を測る指標であるのに対し、フローは「行為そのものへの没頭」を捉える概念です。丸井グループはフローをエンゲージメントの上位概念と位置づけ、単に会社に満足しているだけでなく、仕事に没頭し創造性を発揮できる状態を目指しています。この視点の転換が、同社の人的資本経営における大きな特徴です。
丸井グループの「フローKPI」導入の全容
社員調査データから見えた現在地
丸井グループは2023年に実施した社員調査(対象約4,447人)のデータを、4チャンネルフローモデルに基づいてマッピングしました。その結果、フローに入りやすい状態にある社員の割合は42%でした。2024年6月時点では45%を目標としていたところ、47%を達成しています。
同社はこの数値を2030年までに60%へ引き上げることを目標に掲げています。単年の改善幅は数ポイントですが、組織文化の変革という長期的な取り組みにおいて、着実な進捗を示しているといえます。
「好きを仕事に生かす」をインパクトKPIに
丸井グループは「自分の好きを仕事に生かせているか」という指標もインパクトKPIとして設定しています。2012年時点では「自分の強みを活かしてチャレンジしている」と回答した社員は38%にとどまっていましたが、2022年には52%まで上昇しました。
このKPIは、同社のインパクトテーマである「働く人がフローを体験できる社会をつくる」と直結しています。個人の興味関心と業務の接点を広げることで、フロー状態に入る確率を高めるという考え方です。
15年かけて築いた「手挙げ文化」が土台に
企業文化1.0から2.0への進化
丸井グループのフロー経営は、突然始まったものではありません。同社は2005年から約15年をかけて「手挙げの文化」を醸成してきました。これは社員が自ら手を挙げてプロジェクトや研修に参加する自発的な行動を促す企業文化で、「企業文化1.0」と位置づけられています。
現在目指しているのは「企業文化2.0」です。これは「失敗を許容し、挑戦を奨励する文化」であり、フローの概念を活用して社員の創造性をさらに引き出すことを目指しています。手挙げ文化で培った自主性の土台の上に、より高次の没頭体験を実現しようとしています。
1on1ミーティングによるフロー促進
2024年には、1on1ミーティングの取り組みに関する全社調査も実施されました。上司の問いかけにより社員の発言量が7割以上を占める1on1を行った場合、キャリアについて話し合った社員の異動希望率が高くなるという結果が出ています。
これは社員が自分のキャリアについて主体的に考え、新たな挑戦を求める意欲が高まることを示しています。1on1を通じて能力と挑戦のバランスを調整する仕組みが、フロー状態への入り口として機能しているといえます。
中期経営計画との連動——利益と幸せの両立
5カ年計画の3つの柱
丸井グループは2026年3月期を最終年度とする5カ年の中期経営計画において、「事業戦略×資本政策×インパクト」を骨子に掲げています。人的資本投資額は2022年3月期の77億円から、2026年3月期には120億円への拡大を計画しており、人的資本投資の収入がコストの5倍になると見込んでいます。
フローKPIはこのインパクトの柱に位置づけられ、ビジネスインパクトとソーシャルインパクトの両立を図る重要な経営指標です。社員のウェルビーイングを高めることが、結果として事業成長にもつながるという好循環の構築を狙っています。
外部からの評価
こうした取り組みは外部からも高く評価されています。丸井グループは「ウェルビーイング・アワード2025」の「組織・チーム部門」でゴールドを受賞しました。障がいのある社員の個性や強みを活かしたDX推進の取り組みが評価されたもので、多様な人材がフロー状態に入れる組織を目指す同社の方向性と一致しています。
フロー測定の課題と2030年60%目標
フロー状態の経営指標化には課題もあります。フローは主観的な心理状態であるため、測定の客観性をどう担保するかが問われます。自己申告ベースの調査では、回答バイアスが生じる可能性も否定できません。
また、全社員がフロー状態に入ることを目指すこと自体が、かえってプレッシャーになるリスクもあります。フローは結果として生まれる状態であり、「フローに入らなければならない」という義務感は逆効果になりかねません。
今後の焦点は、2026年度の中期経営計画最終年度に向けた人的資本投資の成果検証と、2030年の60%目標に向けた具体的なロードマップの策定です。丸井グループの試みが他の企業にも波及すれば、日本企業の人的資本経営に新たなスタンダードが生まれる可能性があります。
手挙げ文化を土台にしたフローKPIの意義
丸井グループが導入した「フロー状態」のKPI化は、従来のエンゲージメント指標を超える新たな経営手法として注目に値します。15年かけて築いた手挙げ文化を土台に、能力と挑戦が噛み合う状態を科学的に分析し、2030年の60%目標に向けて着実に成果を上げています。
人的資本経営が企業価値の源泉として重視される時代において、社員の「没頭」を経営の中核に据える丸井グループのアプローチは、多くの企業にとって参考になるでしょう。自社の組織においても、社員が能力を発揮しながら挑戦できる環境が整っているか、改めて見直すきっかけにしてみてはいかがでしょうか。
参考資料:
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